野島地蔵の出開帳(二)

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野島地蔵尊はこの江戸出開帳のほか、関東の諸地域を巡回しながら開帳を行うこともあった。このときは事前に出開帳を希望する町村と証文を取かわしその日程を定めた。この証文は「地蔵菩薩御請待相談決定致し候はゞ、取替わす証文左之通り」とてその雛形を記している。これによると

  今般地蔵菩薩、何月何日より何日の間、何寺に於て内拝せしめ度由申聞せられ承知いたし候、

  晴雨に限らず相違なく罷越申すべく候、念の為斯の如くに御座候、以上

    何月何日                         野島浄山寺印

     御寺院御世話人誰殿

とある。そして本尊に備える品として、「一、御備、一、縁縄、一、蝋燭一六挺、一、造花一対、一、卒都婆一本、一、生盛(花)一対、一、盛物干菓子三対」を準備させた。また御札などの価格目録もそえている。これによると、「一、大御影百銅、一、小御影拾弐銅、一、奉書札百銅、一、粘入札四拾八銅、一、御洗米拾弐銅、一、粘入安産百銅、一、半紙安産弐拾四銅、一、粘入縁起百銅、一、半紙縁起三拾弐銅、一、開運守拾弐銅、一、子育守拾弐銅、一、疱瘡守拾弐銅、一、厄除拾弐銅、一、不浄除拾弐銅、一、月水除拾弐銅、一、御目洗水拾弐銅但し竹筒付」などと、おのおのの定価が示されている。

 こうして開帳の日程が定まると、地蔵尊は野島を出発するが、どの地域を巡回したか、たとえば文化十三年(一八一六)八月の「寄進人馬帳」によってみるとつぎのごとくである。

 まず野島村檀中惣代が地蔵尊奉戴一行のため人足四〇人、本馬一疋、軽尻馬一疋を寄進して桶川宿までこれを送っている。桶川宿では問屋がまた同数の人馬を出してこれを鴻巣宿まで継送り、鴻巣宿でも同数の人馬を寄進して熊谷宿へ継送った。八月二十八日のことである。熊谷宿では当地の石上寺で同月二十九日から翌閏八月八日まで開帳内拝が行なわれた。その後熊谷宿から同じく人馬の寄進をうけて深谷宿に到着したが、ここでは同月十日から十八日まで当地の西蓮寺で内拝が行なわれ、ついで同宿から人馬の寄進をうけて妻沼町に継送られた。妻沼町では歓喜院で同二十六日まで内拝が行なわれ、翌二十七日には上州山田郡丸山宿の大円寺に向うため妻沼町から太田町まで人馬の寄進をうけた。丸山の大円寺では同閏月二十九日から九月三日まで開帳内拝が行われ、ついで翌四日桐生村松の光明寺へ向い、光明寺では八月五日から八日まで開帳が行なわれた。それより野州足利助戸町の権現堂で九月十一日から同二十二日まで開帳が続けられ、ついで佐野天明宿に向っている。ここからただちに人馬の寄進をうけて野州都賀郡藤岡宿に向い、当地の慈福院で九月二十四日から十月一日まで開帳が行なわれた。ついで十月三日藤岡宿より古河宿へ向い、古河より栗橋、栗橋より武州葛飾郡千塚村までそれぞれ人馬の寄進をうけながら十月四日千塚村に到着、当地の真乗院で十月九日から十五日まで開帳内拝が執行されたのち武州埼玉郡不動岡村に向った。不動岡村では喜福寺で十月十九日から同二十四日まで開帳され、それより幸手宿を経て西宝珠花村に向った。ここでは宝蔵院で十月二十八日から十一月二日まで開帳が行なわれた後、粕壁宿から寄進の人馬を乗継ぎ野島村に無事帰村した。この間閏月が入っているので丸三ヵ月にわたって関東諸地域に出開帳を行なっていたことになる。

 このとき開帳の行われた寺院を示すと、熊谷石上寺―深谷西蓮寺―妻沼歓喜院―丸山大円寺―桐生村松光明寺―足利助戸権現堂―藤岡慈福院―千塚村真乗院―不動岡喜福寺―西宝珠花宝蔵寺の一〇ヵ所であった。

寄進人馬帳(野島浄山寺蔵)

 このほか文政二年(一八一九)の出開帳をみると、埼玉郡久喜町から比企郡松山町、入間郡小久保村、筑波郡上郷村、葛飾郡堤根村などを巡っているし、文政十二年には幸手宿から野州境町、総州関宿町、葛飾郡椚村などを巡っている。また天保十年(一八三九)には足立郡領家から川越・所沢・飯能・坂戸・松山・上尾・大宮などを巡回している。なかには弘化四年(一八四七)のように下総の流山方面をひろく巡ったときもあり、しばしば関東諸地域で出開帳を行なっていたことが知れる。