宝篋印塔は、宝篋印陀羅尼経を納める塔であることからそのように呼ばれているが、多くは鎌倉時代から墓碑として建てられている。市内の宝篋印塔は今までに一三二基が確められている。そのうち最も古いものは、増林の勝林寺にある元和二年(一六一六)十二月の墓石である。
元和期の宝篋印塔は市内で七基数えられるが、寛永期になると八六基とその数が急増している。また、正保年間は一二基、慶安年間には七基が数えられ、承応年間になると急に造塔数が少なくなる。そして寛文期以降になると舟型の墓石が一般化し、宝篋印塔は大型の供養塔として造塔されるぐらいである。
市内の宝篋印塔は、中世の板碑と正保・承応年間以降の石地蔵や庚申塔の間にあって、最も多く造塔された石造物であり、元和年間から寛文年間ごろまでの重要な歴史資料の一つといえよう。