地蔵信仰

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地蔵は閻魔(えんま)の本地仏(ほんちぶつ)であり、死者を地獄の苦しみから救う菩薩とされている。とくに子どもを守る仏として信仰されたため、〝子育地蔵〟として親しまれる地蔵が多い。このほか、地蔵は、火防・盗難除け・かさいぼ取りなど、庶民の願いを聞きとどける仏として深くなじまれた。

 市内の石地蔵は増林の墓地にある正保元年(一六四四)の舟型光背の地蔵が最も古いものである。また大沢の照光院に承応元年(一六五二)のものがある。これには「奉造立地蔵菩薩為二世安楽也、念仏講結衆」の銘がある。十七世紀の中頃に念仏講が結成されていて、石地蔵を造立するようになったことが知れる。

 造立数を年代別にみると、まず寛文年間に一八基と最初のピークをみせる。後述するように、庚申塔はこの年代には七基であるから、約二倍の造塔である。元禄年間に二番目のピークがあらわれるが、その数は九基、庚申塔二〇基の半分程になっている。享保年間になると、その数も三八基と江戸時代で最高のピークに達する。この年代は庚申塔も三五基と数は多いが、石地蔵の造立数の方が多い。また この享保年間には馬頭観音が初めて造立されている。石地蔵はその後各年代を通じ造立数が少なくなっている。

 石地蔵を建てる講中には念仏講中が多いが、なかには、七左町下組の墓地にある寛文十年(一六七〇)の石地蔵に「奉待庚申之供養二世成就所」とあるように、庚申塔として立てたものもある。また特殊なものには、大房の薬師堂境内にある享保十年の地蔵がある。これは死刑になった人の菩提を弔ったものである。「大沢猫の爪」(越谷市史(四))には、この地蔵造立の由緒が次のように記録されている。

  一享保年中、当町佐兵衛屋敷喜兵衛分に借地罷在候虎屋伊兵衛親族之者、人殺金子奪取候段、不届至極に付所御仕置に被仰付、大房村死馬捨場堤下往還通に而獄門に被行候

   今石地蔵一体雨屋付、銘戒名等有之、享保十巳四月願主紀州若山宇左衛門、脇に上州清六ト有之、左方に大沢町虎屋伊兵衛妙性信女与有之候

大房薬師堂の地蔵