庚申塔

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市内の庚申信仰は、その造塔数をみて変遷を探ることができる。庚申塔が三六一基、地蔵庚申三基、弥陀庚申一基、猿田彦大神二三基、塞神九基、板碑八基と、庚申信仰の石造遺物は合計四〇四基が確められる。これをおよそ五〇年間隔で集計すると第58表のごとくなる。

第58表 庚申塔・年代別型態別一覧(約五〇年間隔)
型態区分 文字塔 青面金剛像 地蔵・弥陀 猿田彦 塞神 板碑 総合計
年代区分 板碑型 笠付型 駒型 柱状型 自然石 小計 笠付型 舟型 駒型 柱状型 小計 舟型 舟型 小計 駒型 柱状型 自然石 小計 駒型 柱状型 小計 図像 十三仏 釈迦三仏 二十一仏 小計
戦国~桃山期(一五五一~一六〇〇) 2 1 1 3 7 7
江戸初期(一六〇一~一六五〇) 0
江戸前期(一六五一~一七〇〇) 14 1 15 2 1 15 1 19 2 1 3 37
江戸中期(一七〇一~一七五〇) 1 5 3 9 7 1 62 2 72 1 1 1 1 83
江戸後期(一七五一~一八〇〇) 23 14 37 1 65 2 68 1 1 2 2 108
江戸末期(一八〇一~一八六八) 1 41 48 3 93 4 9 9 22 2 13 1 16 1 1 2 133
明治期(一八六九~一九一一) 1 1 1 1 2 1 3 3 3 5
大正期(一九一二~一九二六) 0
昭和期(一九二七~一九四五)まで 1 1 1
年代不明 6 6 1 17 18 2 2 1 1 27
14 3 75 65 4 161 15 2 170 14 200 3 1 4 7 14 2 23 7 2 9 2 1 1 3 7 404

 市内の庚申信仰が造形となって現れるのはまず板碑にはじまる。

 十六世紀後半は戦乱の世だが、このころの天文二十一年の弥陀三尊図像板碑、同二十二年の同型の板碑、十三仏板碑一基、釈迦三尊板碑一基、二十一仏板碑三基の計七基に庚申信仰の銘がみえる。しかし十七世紀前半は宝篋印塔や五輪塔などが多数造立されているが、庚申信仰を表わすものは一基も発見されていない。これが十七世紀後半になると庚申そのものの塔が立てられてくる。

 市内最古の庚申塔は大成町の承応二年(一六五三)の板碑型の文字塔である。これには、

                       清左衛門

                       徳右衛門 

         承応二年□□   施主   市左衛門

                       七郎左衛門

      〓 奉供養庚申二世安楽処     治右衛門

                  敬白   四郎衛門

            無神月 吉日     六郎衛門

                       五左衛門

 

とある。

 種子はバク(釈迦)を刻み、造塔者八名の名が見える。

承応2年の庚申塔

 二番目は四条の二童子を刻む寛文二年(一六六二)の板碑型の文字塔である。

 三猿が刻まれた最古のものは増森西川の寛文三年(一六六三)のもので、庚申講の銘のあるのは相模町の大聖寺東門前にある庚申塔である。

 また日月と三猿が刻まれたものは南荻島の寛文九年(一六六九)の笠付型の文字塔が初見である。

 青面金剛の彫像で最古のものは、大間野の光福寺境内にある延宝八年(一六八〇)の笠付型の庚申塔である。このうち承応二年の大成町のものは、種子の釈迦が主尊として表現されており、越ヶ谷の天嶽寺の舟型光背をもつ承応三年(一六五四)の石地蔵や、宮本町地蔵院の寛文三年(一六六三)の弥陀尊像も庚申の銘が入っており、庚申塔に数えられる。

 このように承応二年(一六五三)から延宝八年(一六八〇)までの三十年間は庚申塔の主尊が青面金剛として表われず、弥陀や地蔵などいろいろな仏が主尊とされている。

 次に庚申塔の造立を一〇年間隔でグラフにしてその推移をみると、大きなピークが二つある。一つは、十八世紀前半の正徳元年から享保十五年の二〇年間で、この間に四四基の造立をみる。次のピークは寛政三年から同十二年の一〇年間で、三六基と最大の造立をみる。次の一〇年を加えた二〇年間では、六一基と最高の造立をみる。

庚申塔造立の推移(10年間隔)

 また庚申塔の型態別の造立をみると、十八世紀の前半は青面金剛庚申塔の造立が多く、正徳元年から享保五年までの一〇年間に二二基と最大の造立がある。この期の庚申塔は、青面金剛像のほか日月、三猿、二鶏などを彫刻したていねいなものが多い。

庚申塔型態別造立(10年間隔)

 寛政三年から十二年の一〇年間をみると、青面金剛庚申塔の一三基に対し、文字庚申塔が二三基と急激に造立された。これ以降の庚申塔は文字庚申塔が多く造立される。この時期に庚申塔の造立に大きな転換がみられる。

 このように盛んに造立された庚申塔も明治期にはいると急激に減り、その数は三基にすぎない。

 また庚申塔の月別の造立数を見ると、十一月が圧倒的に多く、七月は少ない。享保八年の七左衛門観照院の庚申塔に「十一月庚申」とみえ、寛政十二年の増林城ノ上の稲荷神社の庚申塔には「初庚申」とあるように、初庚申と納め庚申に庚申塔の造立が集中していたことと思われる。

庚申塔月別造立

 これら庚申塔を造立した講は数人から百人以上、組中から村中まであるが、なかには女人講中という女性だけのものがある。たととえば享保十五年(一七三〇)の登戸の報土院の庚申塔には女中三拾人と刻まれており、このような女人講中の庚申塔は四基確められている。

 このほか庚申塔の中でも相模町の大聖寺に立てられた天保六年(一八三五)の百庚申は特筆すべものの一つである。

 百庚申は多人数により百基の庚申塔を一ヵ所に立て、一基の庚申造立にくらべてより多くの功徳を期待したものであるが、大聖寺には現在九十七基が残っている。これらはいずれも「庚申」と文字が刻まれ、日月が付いた柱状型の小型の規格品である。

大聖寺の百庚申

 この百庚申の施主の住所を調べると、市内を中心に東は下総国の江戸川左岸から、西は綾瀬川の右岸の足立郡南部領の村まで、南は江戸までの広がりをみせており、当時の大聖寺の信仰圏がうかがえよう。

 天保九年(一八三八)には百庚申の主基として青面金剛像の庚申塔と二基の石猿が造立された。この世話人は四名、石工は越ヶ宿の小嶋長兵衛である。

 また庚申信仰には神道家の影響による猿田彦命を主尊とする猿田彦大神の塔もある。たとえば大林香取神社境内の文政十年(一八二七)のものには「猿田毘古大神」とあり、「武蔵国一宮神主岩井伊予守物部連正興謹書」とある。

越谷地域の庚申塔分布図

 この猿田彦の塔は市内で二三基が確められている。このほか庚申塔に含まれるものに塞神塔がある。塞神は境の神として、村内に悪疫が侵入するのを防ぐ神として古来から信仰されていたものであるが、市内には九基が確められている。だがいずれも、かつて忍藩領であった東方・見田方地域に集中している。なかには、〝庚申〟と刻まれたとみられる文字を〝塞神〟と改刻したものもみられる。

改刻とみられる見田方の塞神塔

 これは明治の神仏分離令の布告とともに、忍県に登用された平田篤胤の門人木村御納の手によって篤胤の説く「庚申などと申すな、塞神と唱えよ」が忍県で実施されたための改刻のようである。

 明治初年の忍県の宗教政策が、忍領の見田方村など八条領八ヶ村においても、庚申塔の破却や改刻という形で行なわれたことを実証している重要な資料の一つといえよう。