普門品供養

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普門品は「妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五」という法華経の経典であるが、これを略して観音経と称される。

 『越谷市民俗資料』(昭和四十五年市史編さん室)によれば、西方では七月八日に夏祈とうをする。男が太鼓を持ち観音経を唱えながら一軒一軒廻って歩いたという。また大泊では四月十日が春の百巻経、二百十日が秋の百巻経と称し観音堂で観音経を読誦した。さらに毎月一日は観音経の日と定められ、講中の廻り番で行なっていたといわれる。

 この「観音経」と称される宗教芸能は、太鼓の胴をギリギリとできるだけ強く締め、はじき出されるようないさぎよい音調にともなって、観音経を唱えるのであり、導師一人のほか三~四人が組んで行なうものである。導師といっても鍛練を積んだ村びとのことであり、はじめは僧侶の指導によって行なわれたが、のちにはまったく村びとたちによってすべてが行なわれ、かつ子孫に伝えられた。村内の諸行事のなかでも男性的な芸能といえよう。「産社祭礼帳」によると、寛政九年六月、越巻丸の内と中新田の惣若者一同が観音経を取立て、毎月一日万蔵院薬師堂にて読誦するようになった。腰弁当で朝から始め、一人で三十三巻宛、これを読誦したという。したがって観音経もこの頃には一般的にひろまっていたことが知れる。

 このような観音講中によって造立された供養塔のうち、市内最古のものは、享保二年(一七一七)の増林浅間神社境内のものであり、これには、「奉読誦普門品拾万巻供養塔」と刻まれている。このほか一万巻・五万巻読誦の記念に造立されたものが四一基数えられるが、なかには庚申塔に普門品供養塔を兼ねているものもみうけられる。

 このほか各宗派の名号や題目、あるいは経典の名を石に彫って供養したものもみられる。このうち名号供養塔で古いものは、越ヶ谷天嶽寺にある慶安二年(一六四九)の「南無阿弥陀仏」と刻まれた塔である。南無とは帰依すること、つまり浄土教ではこの名号を唱えることで、誰もが極楽浄土に生れ変ることができると説かれている。この種の塔は市内で三〇基を数える。また「南無妙法蓮華経」と題目の刻まれたものも二基ほどみられる。