市内の普請供養塔には石橋供養や敷石供養など三九基が確められている。
石橋供養塔は市内では西新井の大石橋際の宝永二年(一七〇五)のものが古い。また延享元年(一七四四)十一月の三野宮の石橋供養塔は、橋組二十一人と刻まれてあるので、この石橋をかけるため二十一人の石橋講が結成され、何ヵ年かお金を積立てた後、石橋をかけることができた記念の塔であったろう。
また蒲生一丁目の旧日光街道に、宝暦七年(一七五七)六月の「砂利道供養」塔が建てられている。これは蒲生公民館前の日光街道際にある普請寄附塔と一対をなしたものであり、宝暦七年に日光街道の大普請があったときのものである。蒲生公民館前のものは、このとき、長さ三百間(約五四〇メートル)の道普請を寄付した常州茨城郡の神山勝秀と、そのうち十間(約一八メートル)の道普請を寄付した野州芳賀郡添谷長俊が建てた記念碑である。
宝暦七年の日光街道の普請は文献史料にみえないので、この一対の石塔に刻まれた金石文は唯一の資料として貴重である。
また敷石供養塔は社寺の境内に敷石を寄進したときに立てられた。このほか、大沢の照光院には安永八年に梵鐘を新鋳した鐘供養塔などがある。
このように普請供養塔は石橋、道路、梵鐘など、できるだけ長く保存されることを願って建てられたものである。