道路の辻やわかれ道などに、道の方向を示した塔が立てられている。これを道標と称した。いままでに市内の道標は十三基が確められている。最も古いものは蒲生にある正徳三年(一七一三)の駒型の道標であり、「是ヨリ左大さがみ道」とある。
このほか、庚申塔などが道標を兼ねているものが数多くみられ、種類別に掲げてみると、庚申塔に二六基、猿田彦大神に四基、塞神に三基、馬頭観音に三基、不動像に九基、普門品供養塔に一基、普請供養塔に一基の計四七基が数えられる。これらを併せると六〇基の道標が確められている。
燈籠は仏教とともに寺院の施設の一つとして将来されたものである。それは、仏へ燈明を献じ、仏の功徳を得るための供物である。のちに、神仏習合が進むと神社にも燈籠が立てられ、いまみられるように、鳥居や狛犬と並び、石燈籠が神社の境内に備えられている。
現在は二基一対の燈籠を奉納するが、古くは仏殿の正面に一基立てるものであり、二基一対の形で立てられるのは天正年間(一五七三~九二)ごろからといわれる。
石燈籠の奉納は民間信仰とは直接かかわりはないようであるが、江戸時代の石造遣物としてここにふれておく。
市内の石燈籠は江戸時代に五八基が立てられている。承応の石燈籠が最も古く、延宝、貞享の各一基が残っているが、江戸時代の初期の石燈籠は数が少ない。享和年間以降にようやく奉納の数が増してくる。承応から寛政まで一四三年間に一〇基が立てられているが、享和から慶応までの六七年間に三〇基を数える。この奉納の動機はいろいろあるが、参考までにこの一例を紹介しておく。
越ヶ谷町の商人、三鷹屋嘉兵衛が天保二年に駒木村(流山市)の諏訪社に石燈籠を奉納している。これは、嘉兵衛が文政七年(一八二四)に眼病を患ったとき、駒木村の諏訪社に一〇ヵ年のうちに石燈籠を奉納すると心願を掛け、そして天保二年(一八三一)六月に高さ九尺一寸余の石燈籠一対を奉納したものである。心願を掛けてから八年後のことである。
奉納した石燈籠は小松石で、代金一七両二朱、石工は戸ヶ崎村幸右衛門である。そして六月二十日の寄進供養には親類や近所の人と諏訪社に参詣している(九五一頁参照)。
このとき、別当寺の成願寺に二両を奉納するとともに、御経料として三ヵ寺の僧に一朱宛を布施した。そのほか祝儀や酒食代等の諸経費を加えると、嘉兵衛が石燈籠の奉納に使った金は二四両三分と銭八三文であった。
このように、神社などへ心願を立てて寄進された燈籠もあったろう。
| 主な名称 | 数 |
|---|---|
| こしがや道 | 28 |
| ふどう道 | 22 |
| のだ道 | 10 |
| のじま道 | 9 |
| いわつき道 | 9 |
| ぢおんじ道 | 9 |
| 吉川道 | 9 |
| 江戸道 | 7 |
| あかいハ道 | 7 |
| かすかべ道 | 6 |
| そうか道 | 5 |
| まくり | 4 |
| ましばやし道 | 3 |
| せうない道 | 3 |
| のみち | 3 |
| 鳩ヶ谷道 | 2 |
| 成田道 | 2 |
| 柿ノ木道 | 2 |
| 榎戸わたし道 | 2 |
| 槐戸 | 2 |
| 志んめい道 | 2 |
| 大どまり | 1 |
| 千住 | 1 |
| 市川 | 1 |
| しめきり | 1 |
| 関宿 | 1 |
| 岩井 | 1 |
| 松戸わたし | 1 |
| 八条 | 1 |
| 流山 | 1 |
| かきあげ | 1 |
| 大もん | 1 |
| 豊春村 | 1 |
| 川通村 | 1 |
| 大袋村 | 1 |
| 新和村 | 1 |
| あかぬま | 1 |