念仏講の諸相

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ここでとりあげねばならないのは念仏信仰である。世間一般には念仏というと、浄土教関係の浄土宗・真宗・時宗などの信仰として扱われがちだが、関東一帯にわたって、真言・天台系の念仏はすこぶるさかんなのである。阿弥陀如来への信仰、善光寺参りが民間に定着したのも古いことであり、かならずしも浄土宗の宗勢と結びつくのみではなかった。これにはおそらく、宗派的色彩のうすい民間の遊行(ゆぎょう)僧(中世では遊行聖(ひじり))、行者、行人、山伏などの布教があずかっているものと思う。

 塔碑で見ると、数は少ないが江戸初期から存在することは、地蔵・観音と同じであり、中期から後期にかけて隆盛だったことがわかる。

 この念仏に当然包含してよいものに、十三仏と月待とがある。十三仏は、虚空蔵・大日以下の諸仏菩薩明王を、忌日・年忌に配当することによって興った信仰で、日本中世の産物と考えられている。真言宗の熱心な信者の宅では、弘法大師画像(高野山で受けてくるのが多い)とならべて十三仏の画像を崇めている光景に接するものである。

 月待は中世からなるが、江戸時代にはとくに、二十三夜・十九夜の講が発達したようである。碑塔では、仏一体(勢至か)を中心に「為十九夜念仏供養二世安楽也」(元禄十二年、西方観音堂境内)、同じく仏一体に「廿三夜講中敬白」(元文三年、越ヶ谷天嶽寺境内)などを古い例として、十九夜講・二十三夜講が各所に結成されていたことが明らかである。ことに十九夜講は、「女人講中」と刻したものが多く、婦人たちの集団組織を前捉としている。江戸時代には女性が極度に圧迫され、文字通り「男尊女卑」の社会であった、とよく説かれて来たが、いっぽうで女性も集団行事の中でたがいに慰めあうことを行なっていたことが明らかになる。加えて越谷市域では女性の講組織が旺盛である。『越谷市民俗資料』をひもといた人は痛感したことであろうが、一般的にいって越谷市域には講集団の発達がいちじるしいが、中でも、娘講・嫁さん講・おかみさん講・念仏講、と女性のみの形づくる年齢階梯的講の発達は、目を見はるものがある。こうした現行の民俗がそのまま江戸時代にさかのぼりうる、とも思わないが、そうした現象の素地というべきものは、まさしく右の「十九夜講」にあらわれている、といってよい。

下間久里の念仏講

 これらのうち、念仏講は民衆文化史上の貴重な存在である、詠誦の念仏ないしは念仏芸能を生む母体であった。いま下間久里・向畑・増森・越巻、その他各所に老女たちの念仏講があり、ほぼ月一度の会合をもっているが、そこで詠誦されている念仏和讃の類は、いずれも江戸時代後期あたりとほぼ一致するものと見てよいのではなかろうか。

 つぎに市内大林の老女たちの持ち伝えた念仏歌本の中から、注目すべきものを転載する。(便宜上編者が漢字を宛てておく)

 

    しはらいねんふつ(一名「さても」)

 念仏申しが     いまござる

 仏壇飾りて     お待ちあり(れカ)

 南無阿弥陀仏

 今日はほとけの   立ち日なり

 雨は降れど(ると)も    風吹くな

 法の煙を      吹き散らす

 南無阿弥陀仏

 枕の上の      お念仏

 しんじょのときには 申されぬ

 目にはををしの(一本う)   雲かかる

 胸はせんだん    つめかける(一本か)

 極楽舟は      着いておる

 経帷子(かたびら)は      急ぎます

 ごんぞ草鞋(わらじ)の    紐をしめ

 極楽舟に      乗る時は

 妻もちさいも    思い切れ

 帰命頂礼(きみょうちょうらい)      ゆうべまで

 隙間の風にも    厭ふべし

 無常の風に     誘われて

 ついに空しく    なり給う

 今日は位牌の    文字となる

 うちから寺まで   賑やかに

 寺からさきは    われひとり

 真の闇でも     嵐でも

 行かずばなるまい  極楽へ

 南無阿弥陀仏

 

    いわふねさん

 岩船山(さん)の      麓には

 海川なけれど    舟浮ぶ

 念仏六字を     帆にあげて

 極楽浄土へ     すらすらと

 南無阿弥陀仏

 〔往生極楽(一本ニヨリ補ウ)

 弥陀さま浄土へ   参るべし〕

 笙(しょう)・篳篥(ひちりき)の     音楽で

 二十五菩薩     皆迎え

 先なる舟は     弥陀如来

 中なる舟は     釈迦如来

 後(あと)なる舟は     わが親よ

 蓮のれんげを    竿にして

 六字の名号を    帆にかけて

 鉦つく撞木(しゅもく)で    梶をとり

 西へ西へと     相乗りあげ(れカ)

 極楽浄土は     近くなる

 極楽浄土の         一の門

 銭でも金でも       明きやせぬ

 念仏六字で        さらと明く

 南無阿弥陀仏

 

   過去帳十三仏

 帰命頂礼      遍照尊

 過去帳一切     供養する

 先祖代々      無縁まで

 浮ばせ給え     弥陀如来

 弥勒(みろく)菩薩に     文殊尊

 阿〓(あしゅく)如来に     地蔵尊

 薬師如来に     虚空蔵尊

 そのほか諸仏    諸菩薩へ

 阿弥陀経に     般若経

 一切経まで     残りなく

 追善供養の     回向する

 南無阿弥陀仏     阿弥陀仏

 帰命頂礼      天竺の

 お地蔵菩薩が    天(あま)下る

 何が所願で     天下る

 あまりこの世が   邪慳(じゃけん)ゆえ

 念仏すすめに    天下る

 お地蔵菩薩の    おすすめに

 花のようなる    娘子が

 今年始めて     糸をとる

 お地蔵菩薩の    袈裟の糸

 五色の糸目     染めわけて

 しっちん織りや   ふうつ織り

 あきのくにはな   ちよしがた

 今日よ明日よ    織り寄せて

 裁ちて仕立てて   たたみ置き

 この世のいとまが  出た時に

 お地蔵菩薩に    納め置き

 お地蔵菩薩の    お手引きで

 極楽浄土へ     招かれて

 蓮華のほちざに   坐り居り

 それを見るひと   聞くひとは

 ひとえに念仏    唱えよや

 南無阿弥陀仏    阿弥陀仏

 

   はるなさん

 帰命頂礼      榛名山

 御池の中の     竜神の

 由来いかにと    尋ぬれば

 昔お江戸の     徳川の

 三代公の      御代の時

 五百五十の     旗本の

 大河内〔氏〕(編者補)金兵衛に

 一人娘の      姫君は

 男子二人を     もうけしに

 世上の人の     為なりと

 榛名の池へ     身を沈め

 子ども二人は    恋しさに

 母君々々      呼ぶ声に

 姫君姿を      現わして

 われの姿は     竜神ゆえ

 二人の子どもは   驚きて

 ともに二人は    出家して

 兄上様は      善光寺

 弟君は       しんごんし

 親子三人      もろともに

 数万の人を     助けんと

 きう念仏を     申すなり

 姫の縁日      十日なり

 老若男女(なんにょ)      あつまりて

 朝の六つより    夕六時

 南無阿弥陀仏と   唱うれば

 雹(ひょう)の難をも     のがるなり

 このありがたき   世に広き

 南無阿弥陀仏

 

    家見念仏

 これさまへ     参るには

 何を手みやげ    いたしましょう

 念仏太鼓に     はりまぶり

 これのやかたへ   はつに来て

 これのお家を    眺むれば

 あきの方(かた)から    ちち(土カ)をしく

 土方(どかた)やこびとや   たのみひと

 仕事師きたりて   地形(じぎょう)する

 大工が絵図引いて  土台しく

 東のじょうやに   米(よね)が立つ

 南のじょうやに   銭が立つ

 北のじょうやは   悪魔よけ

 梁(はり)はぼうがね    鉄の棟

 これのお庭に    井戸掘りて

 白銀釣瓶(しろがねつるべ)で     黄金棹(こがねさお)

 水は泉で      黄金湧く

 これのお脊戸の   しちくだり

 ふしが九つ     はが七つ

 綾や錦の      けか棹を

 帰命頂礼      霜はしら

 氷のわきめに    雪の桁(けた)

 雨のたるきに    露のふき草

 これさまへ参りて  わくごを見れば

 白銀の       まきはしら

 わるきなるきは   のべ黄金

 東きり窓      銭すだれ

 銭の恵みで     朝日さす