下間久里の獅子舞

1243~1245 / 1301ページ

越谷市下間久里に伝統をよく守った獅子舞がある。あきらかに江戸時代においても行なわれていた証拠があるのでここに述べることにする。

 獅子舞とよばれる芸能には大きく言って二つの種類がある。一つは、獅子頭(がしら)を先頭に、大きな布の中に二人以上が入って舞うもの、もう一つは獅子頭をかぶって立って舞うもので三人で組むことが多い。後者は関東・東北に濃厚に分布しており、中にはしし踊りとよばれるものもある。下間久里のは後者であって、おそらくこの地のほかにも江戸時代には多数の村落(現越谷市域の)で舞われていたのであろうが、その立証をすべき資料を欠いているので、ここには下間久里の場合のみを述べる。

 毎年七月十五日に下間久里の獅子組の人々は、三体の獅子頭(獅子というにはやや小型で扁平な形のものであるが)を櫃から出して、鎮守香取神社境内の別殿に安置してこれに献供をし、午前十時頃から神前をふり出しに、これをかぶった三人の者に、「太夫」(神聖な巻物を捧持する)や、笛吹きが付いて下間久里の端から端まで各戸を廻り、夜までかかって全戸を祝福するのである。獅子をかぶる役の服装は、揃いの衣裳で袴をはき、顔の下半分から胸にかけて「こうがけ」というもので蔽う。太鼓を腹につけるが、これは羯鼓から変化したものと考えられ、ふつうの太鼓のような音はせず、打つとボコボコと低く鳴る。

 曲には、海道下(くだ)り・宮参り・津島・かたおろし・地固め・早岡崎・拍子岡崎・文(ふみ)岡崎・とんび・よつあげ・ぼっこみ・出端(では)・辻切りなどがあり、旧名主の邸内での舞はとくに盛大に「出端」の曲が時間をかけて演じられ、そのあと「しゃんぎり」とて軽快な曲が奏されると、ひょっとこの面をかぶった数人の者がならんで舞う。全戸を終了するのは以前は夜半すぎてのことであったといい、部落の南の境界の路上で「辻切り」の式を行なう。太夫が刀を振って、おそらく、悪魔退散の意味を示すしぐさをする。

 この芸能について、民族音楽の専門家小島美子氏は『利根川 自然・文化・社会』(九学会連合利根川流域調査委員会編)の中で、次のような意味のことを述べられた。

 利根川流域には三匹しし舞が数多く分布するが、その中で最も素朴な、原初的構成をもった獅子舞は越谷市下間久里のそれではないかと思う。その理由としては二つのことが挙げられる。第一に、各曲が短いハヤシの型一つだけでできていることである。一般に民俗音楽の曲の構成は、短い曲のいくつかを組合わせることが多いのに対し、三匹しし舞において平均的な型の長さ、だいだい2/4拍子で二〇~五〇小節ていど、これを一つだけ何度かくりかえされるだけで、各曲が構成されていること、これである。第二に、ハヤシの旋律に用いられる歌のタイトルが、そのまま演目のタイトルとなっていること。すなわち、前に掲げたように、早岡崎・拍子岡崎・文岡崎等によくあらわれたように、これらは旋律に付けられた名称としてかなり広い範囲に使われるものであるが、下間久里ではこれがそのまま舞の題目としても用いられているのである。

 以上は民俗音楽の研究者の側からの指摘であるが、付近の各地の獅子舞と比較して、だれしも気付くことは、他地によくある「何々がかり」という、劇的性格を多少なりともった演目が、この下間久里にはまったくないことである。幣がかりとか太刀がかりとか綱がかりとかは、他に例が多く、また「雌獅子かくし」のように、かなりに演劇的意味づけをされる演目も、多くの土地に見られるのだが、下間久里にはまったくそれがなく、人によるとこの一つくらいは昔はあったという話もあるが、たしかに記憶している人はいない。このこともあるいは下間久里のしし舞が古風を保持している徴表の一つといってよいのであろう。

下間久里香取社