獅子舞伝授の史料

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それならばいったい下間久里の獅子舞はいつごろから行なわれているのであろうか。ここの「太夫」が捧持する巻物はいっさい他見を禁じているので、それによって史的考察をなす途はとざされている。しかしここに一つの間接的な史料がある。それは下間久里がかつて銚子口の獅子組に伝授した時に作られた文書の中に元和という年号を見出すのである。(以下銚子口獅子組所蔵の史料については小島美子氏に教示を仰いだ。ここに記して謝意を表する。)

 それによると、元禄十年(一六九七)七月に伝授を受けた銚子口(現日春部市銚子口)村の弟子連中十二人(内、「小しし」と肩書したのが二人、「ふへ」と肩書したのが三人ある)の連名で、

  此巻物は、下間久里村より伝(つたうる)時写てんしゆ(伝授)して、如此(かくのごとく)師之巻物之通有(あり)のまゝに写置(うつしおく)者也

としたためた文書であり、本文は「四のまき」云々から「八のまき」まで和歌のようなものが記され、次に「れいけん」として、

  南方ゑんま天 とうほう(東方)たいしや(く脱)天 さいほう(西方)らせつ天

などと記し、以下種々の密教の真言をひらがな書きにしているものである。察するところ「四のまき」以前は途中で欠失したものであって、おそらくは法華経の第一巻から第八巻(法華経は二十八品を八巻に収めてある)までの各大意を和歌で示したものであろう。第五巻については、

  五のまきは、こきやくのつみもあらわれて女人しやうふつするを(と)こそきく(け)

とあり、「こきやく」は五虐であろうが、それならば親殺し以下の何としても償ない得ない大罪のことであるから、ここは「五障」すなわち女性の生得的にもつ五つの仏法上の障礙をさす語を誤まったものであって、大意は五障の罪も洗われて女人(にょにん)も成仏する大慈悲が法華経五巻には説かれている、ということであろう。

下間久里の獅子舞

 こうしたわけで、原本に「元和九年三月吉日 次(花押)」(元和九年は西暦一六二三)とあったというのも(写しであるから花押も稚拙に書かれてあるが)、内容が古めかしいものであるだけに一応信じ得るものである。これら法華経大意と真言とがいかにして獅子舞と連なってくるかは現在のわれわれには不可解であるが、真言をともなった秘伝はこのあとにも出てくるので、獅子舞の古い段階では大いに関係があったと見るべきである。(もっとも、右の巻物写に元和九年とあるからとて、下間久里に於てその年代に獅子舞があったとを断定するわけにもいかない。元和九年より後になって下間久里村で他村から伝授を受けた際にこの通りに写して所持していたのかもしれないからである。)

 銚子口村の獅子組が元禄十年(一六九七)七月に下間久里から伝授を受けたことは次の文書で明白である。

    抑獅子佐々羅(ささら)之口伝者是

  一 こし指に御へい差事は、八幡大菩薩御ゆるしなり

      是に依而口伝者

  一 め(雌)しゝのはち  壱尺成

  一 中しゝのは   壱尺なり

  一 お(雄)しゝのはち  壱尺三寸に究め□□たいこのくさひ拾弐なり 但し薬師十二神之まなへ

  一 こしさしは拾二本、三十番神之鳥毛をゆるし、其に而弐拾二枚とてまき申候。口伝者

    元禄十丑歳七月吉祥日

    武蔵国西新方領下間久里村

            香取大明神

    同国松伏領銚子口村

            香取大明神

           獅子之師

             荒井平兵衛印

       銚子口村

          弟子中

文中「はち」は撥(ばち)であり、「まなへ」とは「まなび」で擬(なぞら)えたとの意、「薬師十二神」とは薬師如来像に付随する十二神将のことである。なおまた次の誓約書風のものがある。

     獅子切紙之事

  一 我等弟子に成以上は、しゝ執行何方江成共罷越しゝ執行可仕候。若何方に而成共構申者候はゞ、何時成共我等罷出埒明ヶ可申候。為獅子御巻物相添渡置也。依如件。

                       下間久里村

    元禄十丑歳                 荒井平兵衛印

        七月

      銚子口村

         弟子中

こうして当時の下間久里から銚子口への伝授が行われたわけだが、さらに翌年九月の日付で、二十八種の印相を列挙した文書が作られ、奥には

  一 獅子巻物有口伝依テ秘ヘキ々々

    武州松伏領丁子口村 香取大明神

     元禄十一寅歳

           九月吉祥日

とある。ここに記された印相の名称中、三古印は三鈷印、世無為印は施無畏印、三普蓮花印は未敷蓮花印のことであろうから、修験道らしいものが根底にあったとしても、ずいぶんくずれかけたものであったことが察せられる。

 なお直接下間久里とは関係ないが、この銚子口村で他村の仏師に獅子頭製作を注文した文書も現在する。

    註文之覚

  一 角兵衛獅子頭  三躰

  一 山神頭     壱躰

  一 花笠      四組

  右は何れも古来塗方之通仕立(したて)、但し金箔置之所白檀(びやくだん)にいたし候。獅子頭右は弁柄(べんがら)朱塗り之所此度は不残(のこらず)本朱塗りいたし候。右は前書之通随分入念仕立、来月十日に相渡し可(べく)申上候。

    代金弐両

    巳六月廿日  下総庄内領上金崎村

            大佛師佐門

           関根幸八徒恒

    銚子口村

      久左衛門様

      忠兵衛様

 

とあり、注文を受けて製作したのは、下総国下金崎村(現埼玉県北葛飾郡庄和町上金崎)の仏師関根という者であったことがわかる。江戸川(利根川の分流)が舟運で栄えていたため、その岸に近い上金崎には仏師さえも営業していたことがわかって興味深い。

 ところで、右のように、下間久里から伝授を受けたのは銚子口だけではない。千葉県野田市清水、春日部市赤沼にもその古文書が現存し、庄和町中野でも下間久里から受けたと伝えている由である。

 野田市清水のは、文書の写しではあるが、元禄六年(一六九三)七月廿七日とあり、銚子口より四年早い。「抑(獅脱)子佐々羅之口伝者是」も「しゝ切紙之事」も銚子口のものとほとんど同文だが、両者共署名に「荒井平兵衛無弐」とあり、前者の文中「めしゝのはち」の前に梵字が五字記され、ア・ビ・ラ・ウーン・ケンとよめる。すなわち報身の大日如来の真言である。まためしゝの次に単に「しゝのはち」とある。

 春日部市赤沼のものは享保三年(一七一八)七月で、銚子口より二二年後であるが、標題の最初の「抑」はなく、梵字もなく、「めしゝ」の次はやはり単に「しゝ」とあり、「三十番神」を「三十萬神」と記し、第六項として

  一神前之獅子さんばさう、〆縄十六広(尋)、同竹四本也

というのが付加され、さらに

  右者此方弟子に紛無御座候。為其如斯に候。以上

とあって、この最後の一条が銚子口や清水の場合の「しゝ切紙之事」という誓紙に代るものであったのであろう。署名は大いに異なって、「無双角兵衛」として丸い印判がおしてある。現在も下間久里の雄獅子の角には「雨下(あめがした)無双角兵衛」の七字が刻まれている。雨下とは天下ということで、この名を名乗る獅子舞は、東京都足立区花畑町(江戸時代には花又村)その他例は多い。赤沼の場合、宛名も「武蔵国松伏領赤沼村平七郎殿」とあり、はじめて個人名となっている。

 以上のように、越谷市域外に残った史料によっって、下間久里の獅子舞が元禄・享保という時代にいかに近隣に喧伝されていたかを知ることができる。もちろん芸能の細部にわたっては問題があるものの、基本的部分においてかなりの古型をこんにちに伝えるこの誇るべき郷土芸能が、江戸時代すでに人気を博していたことを知るのは、まことに郷土越谷にとって興味深いことである。