天保の幕政改革の一環として、江戸・大坂十里四方を幕府領地に組入れ、幕府支配の強化をねらった〝上知令〟は失敗し、天保十四年(一八四三)閏九月、改革の推進者であった水野忠邦は老中を失脚した。幕府の威信はすでに失墜していたのである。
ことにこの頃は長州・薩摩・土佐などの外様大名はもとより、福井・水戸藩などの幕府と関係の深い雄藩の政治的動きは活発になり、政局は混沌とした様相を深めるにいたった。加えるに米・仏・露などの外国勢力が、しきりにわが国に接近しようとする動きがみられ、幕府は内憂外患の危機に立たされていた。この折に米艦が通商を求めて日本に来航したが、これを契機に尊王攘夷の台頭など破瀾万丈の政治情勢が展開されることになる
嘉永六年(一八五三)六月三日、アメリカ合衆国の通商使節ペリーが、日米通商の国書をたずさえて旗艦ミシシッピー号に乗りこみ、東印度艦隊の三隻の軍艦をともなって浦賀沖に来航した。鎖国の方針をとっている幕府は、ペリーを江戸へ招くこともできず、といってこれを打払うだけの国力もなかったので狼狽したが、幕閣一同協議のうえ一応国書を受理してペリーの国外退去を求めることになった。と同時に江戸をはじめ江戸湾沿岸の防備を各藩に通達した。
この防備触れをうけた品川近辺に屋敷をもつ大名家では、『花吹雪隈手迺塵』によると、「にわかに或は鑓をとぎ矢の根をみがき、鉄砲の玉を鋳立て、御固めの人数は日々甲胄或は陣羽織に白き鉢巻等にていかめしく出立、大小砲又は抜身の鎗などたずさへ日々往返に人の目を驚かしむ」とあり、まさに大混乱の有様であったようである。
この間の事情を越巻村中新田「産社祭礼帳」(越谷市史(四)八八一頁)によってみると、「五月下旬より異国船渡り来り申べくについては、通行多くと相成間、他行など致さざるようにと御触これあり候、六月十二日異国船浦賀表へ渡来候につき、海岸御防御用のため、諸大名様数多御通行の由御触これあり、六月十六日頃までは諸大名様方御固め御用御通行、もはや十六日は御用済み引払い御通行数多これあり候」とあり、幕府ではペリーの来航は事前に沖縄からの情報によって知っていたので、大名などの御用通行の繁多を予測し、一般人の道中旅行を規制していたことを伝えている。さらに六月十二日には、海岸防備御用の諸大名が通行する旨の通達が村々にだされ、日光道中でも防備固めの諸大名が通行したが、十六日には御用済となって帰国の通行者が数多かったと記している。
また越ヶ谷谷本町内藤家の「記録」(越谷市史(四)八一〇頁)では「相州浦賀表へ異国、北アメリカ上喜舟と申す舟、公儀へ願の筋これあり、大一艘小三艘、中にも小壱艘御番所の内本もく台まで乗込み来り、俄かに騒立て諸御大名様御出張御手配遊ばされ候由、草津にて承り候」とてペリー来航の情報を、湯治先の上州草津で入手したことを記している。この全国をゆるがした異国船渡来騒ぎはペリーの退去によって一応おさまったが、幕府は万一に備え海岸防備を諸大名に命じると同時に、同年八月から品川沖に御台場の建設にとりかかった。