御台場の構築

1253~1254 / 1301ページ

はじめ幕府は品川沖に一一ヵ所の御台場を構築する計画であったが、結局一一ヵ所のうち六ヵ所が構築されるにとどまった。この費用は金七五万二九六両であったという。この御台場は現在六基のうち第三台場と第六台場の二基が原型を残しているが、その他はいずれも東京湾改修工事のために撤去されて、その姿をとどめてない。

 御台場構築に関しては、越巻村「産社祭礼帳」の嘉永六年の記事をみると、「九月二十四日、品川沖新規御台場御取立てにつき、下埋に相用土俵多分御入用につき、村高百石につき桟(さん)俵付百俵宛お買上げに相成、御惣代江戸浅草今戸浦まで上納仕り、代銭いただき申候」とあり、越谷周辺村々に対しても埋立てに使用する土俵の空俵を高一石につき一俵宛に割当てていたことが知れる。この上納俵は舟に積まれ浅草今戸浦まで送られて惣代がこの代金を受取ったとある。

 なお、この御台場構築資金は、主に富裕な江戸町民や大坂・兵庫・堺など、関西在住の富商から上納金として調達されたが、越ヶ谷領七左衛門村でも嘉永六年、海防備御用途上納金の名目で、八郎左衛門はじめ四名の高持百姓が金一八両を幕府に献納していたので、幕府は江戸近郊村々にも上納金を命じていたことがわかる。さらに越ヶ谷町でも、万延元年(一八六〇)四月、品川御台場造成上納金の未納金一〇〇両を江戸城本丸再建上納金とともに納めている。

浦賀防備固の図(神奈川県立資料館蔵)

 また越巻村「産社祭礼帳」によると、嘉永六年「十二月二十五日、硝石御買上げにつき、稼人これあり候はゝ、〓合値段など吟味いたし、村々惣代を以て申立るべく御廻状に候」とあり、幕府はおそらく御台場などに備えつける大砲などの弾薬の増産をはかり、各地から硝石(硝酸カリウム)を買いあつめはじめたようである。

 なおこの硝石の採取は、その後、葛飾郡松伏領大川戸村にも〝硝石御自製御出張所〟が設置されていたし、平方村林西寺「白龍山日記録」によると、平方村林西寺に、幕府玉薬方役所から「過日見分した床下硝土のかきとりのため、明十九日硝石製造人長兵衛、人足召連れ罷り越し候」との書状が届き、翌十九日から、林西寺床下の硝土のかきとり作業がはじまったとあるので、硝石の採取は当地域でひろく行なわれていたようである。

平方林西寺