各大名の防備御用

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ペリー来航の翌嘉永七年(安政元年)一月十四日、ペリーは国書の返書を求め、軍艦七隻を率いて再度神奈川沖に来航し、幕府に条約の締結を強く迫った。このため国内の緊張は一層増大した。

 この間の越谷地域の反応を、同じく越巻村「産社祭礼帳」によってみると、「当寅正月中旬後、アメリカ船伊豆大島表へ相見へ候由につき、諸大名様方御場所へ相詰め、それぞれ御家中方夫人足など数多通行これあり候、所々に焼出場(砲台場)でき候由」とあり、ペリーの再度来航に諸大名が防備割当場所に詰めるため、数多道中を通行したと記しており、一般農民も外国船日本渡来に大きな関心を示していた。

 また幕府をはじめ諸大名もこのペリーの渡来に緊張し、その警備に忙殺された。たとえば東方村中村家文書によると、紀州藩では、嘉永七年一月、当春異国船渡来につき、海岸御屋敷警備の人足を、国許から呼寄せる間がないので、紀伊家鷹場領内村々から軍役人夫を調達しようとしている。このときの紀伊家鷹場内村々の軍役人夫徴用の請書には、

(1) 徴用人足の割当ては、およそ高一〇〇石につき人足〇・五人の割である。

(2) 人足一人出府のときの往返は、一日銭五〇〇文を支給する。御屋敷詰めのときも同類である。そのほか控えなどで詰めているときは一日あたり銭三〇〇文を手当てする。ただし人足三〇人につき監督者を一人つける。

(3) 人足は、老人や子供を除き、壮健な青壮年を選ぶ。

(4) 食事は藩から御手当てがある筈である。

(5) 選ばれた人足たちは、御用の通知があるまで足留めとする。

などとある。

 また忍藩松平家でも、領分村々から房州御備場に多数の御用人足を動員しようとしている。このとき東方村をはじめ、忍藩柿ノ木領八ヵ村は、将軍家鷹場の村々であった関係上、御鷹野役所からも馬喰町御用屋敷の兵粮運送人足の徴用をうけており、道中通行繁多な越ヶ谷・草加両宿からも当分加助郷の差村をうけていた。もしこの加助郷が認められると、村内の壮健者はほとんど助郷や鷹野役所の御用人足に出払うことになり、村内取締り警備に差支えるのみか、忍藩の要請による房州御備場の御用人足も調達できない事態であった。

 このため忍藩役人は、嘉永七年二月、海岸防禦の重要性を説き、御備場御用人足の必要上、草加・越ヶ谷両宿から差村をうけた柿ノ木領八ヵ村の加助郷を、特別に免除してほしい旨、道中奉行本多加賀守役所に願い出た。これに対し奉行所では、異国船渡来による夫役勤めは一統の義であり、この願いを取上げる訳にはいかないとして、断わりの付札をつけてこの願書を忍藩に戻した。それでも忍藩は再度の願書を奉行所に提出し、領内村々の加助郷免除を強く訴えた。この結果、奉行所では、品々申立ての儀は認めるわけにいかないが、今回だけは特例としてこれを聞届けるとようやくこれを許している。

 同じく西新井村新井(省)家文書によると、岩槻藩でも、房州勝浦から知田村までの十五、六里の海岸地域は岩槻藩領であり、この間の海岸に台場を築き大砲を備えるため、多数の役夫を必要としていた。ことに武州岩槻表から房州までの道程は、宿継人馬の設けられてない脇往還を通らねばならなかったので、岩槻から輸送する武器や諸荷物は、城付村々の人足を動員するほかなかった。このため頻繁に人足を徴用される岩槻藩領谷中村ほか城付村々は、夫役の過重を申立て、それぞれが付属している宿場助郷の免除を、道中奉行所へ連署して嘆願した。

 このようにペリーの来日は、幕府や諸大名を狼狽させたばかりでなく、一般農民にも過酷な夫役を強制させた。しかも越巻村「産社祭礼帳」によると、「去丑年(嘉永六年)冬中早春までは米相場七斗五升より六升位いのところ、当節アメリカ船立廻り騒ぎにつき入船これなきや、六斗一、二升ぐらいに引上げ申候、殊の外騒がしき義にこれあり候」とあるように、ペリー来日の余波による物価の急騰で、庶民も深刻な影響をうけた。まさに上を下への大騒ぎであったことが知れる。