桜田門の変

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水戸藩を中心とした一部諸藩の反対を排除して、紀州藩主徳川家茂を一四代将軍に擁したことや、攘夷論を無視して修好通商条約締結に調印した幕府大老井伊直弼の強行策に憤激した尊王攘夷勢力は、一大反幕運動に結集する形勢にあった。井伊大老はこれに対処するため、大弾圧を加えて反幕勢力の首脳部を一掃した。これが安政五年から翌年にかけて断行された安政の大獄である。

 しかしこの強権発動は、大きな反動をよび、翌万延元年三月三日、江戸城登城途中の井伊直弼は桜田門外で水戸の尊攘派浪士によって殺害された。平方林西寺「白龍山日記録」の万延元年三月三日の項に、「未だ実説はしかと相分り申さず候得ども、今朝登城先にて御大老井伊掃部頭様、水戸浪人のために横死の由、此節江戸市中商売休み、丸の内は往来留めの由、巷説の事」とあり、同日の桜田門の変事がいち早く村々に伝わったことを記している。

 これによると、巷説として井伊直弼が横死したことを伝えているが、越ヶ谷本町内藤家「記録」によると、幕府の報告には、井伊掃部頭の名で、当日登城先桜田門外で狼藉者に襲われ「拙者儀捕え押え方等指揮致し候処、怪我致し候につき一ト先帰宅致し候」とあり、井伊大老の横死をかくしていたことが知れる。

 しかし巷説ではすでに真実の情報が流れていたようであり、林西寺では横死説を半信半疑でうけとめていた。だが同月十一日には「御大老登城先乱妨横死実説の由、驚き入り申し候、全く水戸前中納言殿附の家来どもの仕業と申すこと、此節御府内御停止同様、丸の内御門御門厳重の由云云」とあり、井伊大老の横死が事実とわかった庶民の驚きを伝えている。

なお越ヶ谷本町内藤家「記録」によると、幕府の変事後の処理により、水戸前中納言の永蟄居処分をはじめ水戸藩家中で打首獄門に処せられた者は、三〇〇〇石以上の者が一三名、一〇〇〇石以上の者が一八名、六〇〇石以上の者が二三名、郷士が三六名、天狗組が六八名にのぼり、その他遠嶋・押込など家内の者まで連座して処分されたことを伝えている。