水戸天狗党の乱

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元治元年(一八六四)三月、水戸藩士藤田小四郎、水戸町奉行田丸稲之衛門ら尊王攘夷の過激派は、その志を実現するため筑波山に挙兵した。筑波勢は当所で同志を集めたうえ日光東照宮に軍を進めたが、これより本陣を下野国大平山に移して気勢をあげた。この頃は同勢一〇〇〇人を超える大集団になっていた。この集団のうち一部の者が、軍資金の獲得のため、宇都宮・桐生など各地の豪商を襲い、一般の民衆にまで掠奪行為が及んだので、人びとはこの集団を天狗党と名付けて恐れた。

筑波山

 天狗党は同年五月の末、大平山から再度筑波山に移って陣を張り、幕府追討軍や水戸藩鎮派軍と交戦したが、十月の末には水戸の東方、那珂湊方面に転営した。ここから総勢八〇〇人、京都をめざして水戸を出発し、野州那須野から武州本庄宿を経て信濃路に入った。一行はさらに伊那谷を南下して中仙道馬籠宿に到り、馬籠から美濃路を上って京都に迫ろうとした。ところがすでに幕府軍が美濃路筋を固めているとの報により、美濃路から西に向って越前国神保に入った。一行はこのときすでに飢えと寒さで戦う気力もつきはてており、加賀藩に降伏を申出た。北山国の寒さきびしい十二月十七日のことである。

 幕府は翌慶応元年(一八六五)二月、加賀藩に捕われていた筑波勢の首領武田耕雲斎、藤田小四郎ら二四名を斬首に処したのをはじめ、三五〇人を死罪、一〇〇余人を遠嶋、一八〇余人を追放の処分にした。

 この間の事情を、越ヶ谷本町内藤家の「記録」でみると、「四月上旬水戸浪人凡そ二百人、日光山に登山致し候につき、日光山御固めとして、小川町歩兵組八百人、諸旗本千人余も出張に相成り候につき、浪人共栃木大平山引取り屯(たむろ)致し、所々へ異国打払いにつき軍用金仰せ付る。栃木町は御用金差出し候対談に違反により同町焼払い、引退き常州筑波山に籠り追々人数相増し、千五百人余りに相成り候、浪士打払いとして三番町歩兵組劔付鉄砲三百人余、西丸分歩兵組劔付三百人余、其外諸役人御出張に相成り、江戸表出立六月二十日頃、それより常州高さへと(道祖)申処にて七月七日一戦に及び、猶又七月九日下妻にて一戦に及、浪人即死手負等これあるよし、歩兵組には手負これなし由、水戸殿家来には即死手負等あるよし、七月十六日当宿まで引返し、同二十五日まで宿逗留致し、同二十六日昼より古河まで出張致す」とあり、筑波勢と追討軍の動向を報じている。

 これによると同年四月に幕府追討軍が日光道を通って日光へ向い、続いて第二次幕府追討軍が六月下旬同じく日光道を通って常州筑波に軍を進めている。幕府追討軍は同七月に常州高道祖や下妻で筑波勢と戦闘を交え、七月十六日、追討軍は一たん越ヶ谷宿まで引揚げ同二十五日頃まで当宿に逗留したとある。

 大沢町鈴木家文書によると、「元治元甲子六月頃より、野州・常州水戸追討につき、同七月十五日より御武家様方あまた凡そ千人御泊りになり、同二十五日より同晦日頃まで追々出立に成り、此時の旅籠代一夜代二百文、中食代百文づつ、夜小夜食代四十八文づつ」と記されているので、七月十五日頃から約一〇日間、追討軍一〇〇〇人ほどが越ヶ谷宿に逗留していたのは確かであろう。

 この間越ヶ谷宿では、これら追討軍をすべて旅籠屋に収容できなかったので、多くの民家に分宿させた。このとき越ヶ谷本町内藤家では、歩兵組五番小隊頭取永見権七郎、差図役児嶋瀬平ほか一二名を一〇日間宿泊させている。この泊り銭は一汁一菜で一人につき銭二〇〇文、昼食は一人あたり銭一〇〇文であった。

 また越巻村「産社祭礼帳」には、「三月頃より水戸浪?と唱ひ、総川・常州・野州の内大騒動、四月中旬より日光御警衛御用御役人様数多御通行、六月上旬より野州追討御用のため御大名様・旗本様そのほかとも御通行、御武器類大砲方焔硝玉薬すべて御箇物夥しく、御若年寄田沼玄蕃頭様御差向い、御旗本御組々衆莫大の御繰出し、十一月に至り漸々追討相済み御帰府、御伝馬前代稀なる御継立」とあり、日光道中越ヶ谷宿の伝馬は、前代稀な多数の継立てであったという。

さらに平方林西寺「白龍山日記録」によると、元治元年七月二十八日の記事に、「浪士乱妨の働き仕り候につき、川々残らず船留め、一切通行相成申さず、筑波山には武田伊賀守、大平山には田丸稲之衛門同勢たてこもり、初夏の頃より諸方富家へ無心に参り世間騒々しく、いよいよもって征伐これあるべく、先頃御旗本大将にて下妻にて合戦の処、官軍背ぼく(敗北)いたし候につき、此度御名代として御若年寄田沼玄蕃頭殿総大将、其内最寄の御大名方加勢仰つけられ、歩兵の面々往来、何れも甲胄陣羽織騎馬にて通行、行列相揃え大鼓を打ち見事の出で立のよし」と、筑波勢追討軍総督田沼玄蕃頭意尊一行の陣立ての様子を記している。

 越ヶ谷町の伝承によると、追討軍総督田沼玄蕃頭は、越ヶ谷宿通行のとき、越ヶ谷町久伊豆神社にねんごろなる参拝をおこない、戦勝の祈願をしたともいわれている。なお林西寺の記事では川々残らず船留になったとあるが、事実、増林村榎本家「訴書留」のうち、元治元年六月の代官所通達に、「今般浮浪の徒横行におよび候て、追討仰せ出され候につき」とて、当分の間川筋村々の村役人は渡し船を厳重に監視し、見知らぬ者の渡船を禁止するとの達しがある。

越ヶ谷久伊豆神社

 ついで「白龍山日記録」では、七月二十九日「今日も大名・小名・歩兵等通行」とあり、同月三十日には「今日も同断、杉戸宿に屯の水戸浪士引払い申さず、官軍差支えにつき、今晩は四、五千人粕壁泊り、当村までも蚊屋とふろ桶、ふとん類差出し間に合せ候」とある。これによると幕府追討軍は七月三十日、水戸浪士が杉戸宿に屯ろしているので進軍できず、当日は一同粕壁宿泊りになったという。このため数千人に及ぶ追討軍宿泊のため、蚊帳・風呂桶・蒲団が徴発されたが、平方村の農家にまでこれが課せられたとある。

 続いて同年十一月七日には「水戸浪士も八月下旬征伐、漸くこの節退治に相成り、田沼侯はじめ大小名水戸街道と此街道と双方追々御帰府に相成り候由、されど浪士の大将分は船にて逃去り退治に相成り申さず、いまだ本静謐にてはこれなく候事、九月二十七日、浪士とも向山浄福寺放火焼失、浪人ども生捕り又は降参の者とも最寄り最寄り大名衆へ二三百人づつ御預けに相成候由、且逃去り途中にて召捕えの分は水街(海)道町、又は古河の城下その外諸所へ御代官出張、獄門に相成り候もの数百人これあり候」とある。

 さらに同月九日の記事には、「浪士の大将分武田伊賀守親子、田丸稲之衛門等戦場逃去り船、野州黒羽根(ママ)城下へ上り、凡そ四五百人、城下狼藉いたし、それより上州の方へ山越えに逃去り、新田大光院抔へ止宿無心に参り、かたがたもって上州辺大騒動、浪士の勢い強盛にて又々江戸より討手に向い、田沼侯も出向申され候得ども、中々手に合申さず、上州藤岡浪士通行の節は中間追々多人数に相成り、凡そ千人余りの同勢にて行列揃え通行の由、高崎様より打手に向い、下仁田町に合戦の処、高崎勢大背(敗)北、即死など多分でき、浪士ども勝に乗り諸所関所切破り、尾張・美濃地へ参り、寒気にあてられ兵糧につき、美濃地より加賀侯御領分境へ参り、とてもかなわずとや思いけん加賀へ降参いたし、浪士皆々生捕り御同所へ御預けに相成り、武田伊賀父子、田丸稲之衛門始め首切られ候事、実に天命かくあるべき筈に候事、これにて世間大いに静謐に相成り有難き事に候、右野州騒動につき、御老中松平伯耆守様日光山へ御固め、此街道夜通し雨中御通行、当村よりも終夜継立に罷出大難渋いたし候事」とあり、水戸を脱出して京都に向う筑波勢の途中の動向やその後の消息を詳細に記している。ただしこの記事は元治元年十一月九日の記事であるので、おそらく後日書き加えられた箇所もあったであろう。

 いずれにせよ当地域は、日光道中筋にあたっていたので、幕府追討軍の物々しい通行を目のあたりにみた人びとは、筑波騒動の変事を身をもって感じていた。この異常な関心が当地域村々の留書のなかに記事となって残されたものであろう。

 なお、西新井村新井(省)家の「記録帳」によると、筑波勢のうち常州・野州の合戦で捕えられた水戸藩元大番組、郡奉行見習下野成次郎ほか水戸浪士や、水戸の郷士三〇名が岩槻藩にお預けの身となっていたが、筑波勢加賀藩降伏軍の処刑に前後し、重罪人二名が幕府目付役立会のもとに打首の刑に処せられ、ほか一八名の者が遠嶋、その他それぞれ処分さいている。維新の前ぶれとも知らずに、人びとはただならぬ騒然とした世情を、不安にかられながらひしひしと感じていたのである。