御用金

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江戸時代、幕府や諸藩が、財政上の不足を補うために、町人や農民らに対して臨時に上納を命じた金・銀を御用金といった。御用金は本来利子付きの償還を予定した借上げ金であったが、幕末にはほとんど償還されず、ほぼ強制的な献金の性格をもつにいたった。

 幕府は宝暦十一年(一七六一)にはじめて大坂町人に御用金令を発したが、その後米価調節・幕府財政融通・土木普請・海防軍事費の調達などにより、幕末になるにしたがい頻発された。御用金ははじめは主として大坂・江戸・京都・兵庫・西宮・堺などの都市の豪商を対象に命じたが、のちには農村の富裕層や都市の一般町人にも課すようになった。

 このうち米価調節のための御用金は、西方村「旧記四」によると、文化三年(一八〇六)と文化六年に、国恩金の名目で、幕府が西方村の高持農民に上納を命じている。この御用金は西方村のみでなく幕領村々すべてに課した。これは豊作の影響による米価の下落を防止するため、幕府が米を買上げる資金にあてたものである。文化三年度は西方村では弥右衛門が金四〇両、利左衛門ほか二名が各二〇両、計金一〇〇両を上納した。この御用金は、翌文化四年七月、元利金一〇五両が返済された。しかし文化六年度に西方村高持層前記四名が上納した米価調節のための国恩金、合計金一六〇両は、いつまでたっても償還されなかった。このため文政四年(一八二一)の旱魃不作時に、改めて御下げ金を願ったが、いち早く手続きをとった代官平岩右膳支配所村々が半金償還されただけで、西方村をはじめ、他の代官支配所の村々は、いずれも償還されなかったという。

 また天保十年(一八三九)四月、江戸城西丸普請に、袋山村名主藤左衛門が、御用金三〇両を上納しているが、これも償還はなかったようである。この頃は、幕府財政収入に占める御用金の割合は、きわめて高かったといわれる。