長州征伐

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元治元年(一八六四)七月、長州藩の尊攘過激派による京都侵攻が失敗に終った。いわゆる禁門の変といわれる京都御所蛤御門の戦いである。この間の事情を、平方村林西寺「白龍山日記録」では「七月二十二、三日頃、京都へ長州の悪党ども乱入、京都過半焼失、御警衛会津侯と戦い大合戦の由」と記し、「誠に恐怖の事、関東は浪士乱暴狼藉、京都は長州乱妨、言語同断なり」と、乱世を嘆じている。

 幕府はこの蛤御門の変後、ただちに長州藩征討を諸藩に命じた。第一次長州征伐である。このときは、長州藩の恭順謝罪によって征討は中止されたが、長州藩はその後も軍政改革を断行するなど、幕府の意向を無視したので、慶応元年(一八六五)五月、幕府は改めて長州藩征討を決意した。第二次長州征伐である。

 幕府はこの長州征伐の軍資金を、幕府・旗本領村々に賦課してこれを調達しようした。御用金の割当てをうけた越谷地域の各村々では、割当てどおり上納した村もあったが、その多くは減額を願い、割当額以下の上納をした村が多かった。

第62表 越谷地域村々第2次長州征伐進発御用金上納
割当額 上納金 上納村
両 分
27 24 大里村
13.2 12 花田村
54 48 小林村
13.2 12 大林村
27 24 長嶋村
13.2 12 中島村
22.2 22 神明下村
27 24 大房村
53 48 大間野村
53 53 四町野村
53 53 西方村
53 53 七左衛門村(御料)
36 32   〃  (私領)
49.2 44 西新井村
27 24 越巻村
350 350 大沢町
610 610 越ヶ谷町
80 80 西方村

 この御用金は、村々の富裕層によって拠出されたが、越ヶ谷町では割当額金六一〇両のうち金六五両を上納した永楽屋幸左衛門はじめ上納者は二六名である。このほか村々のなかでもとくに身上裕福な者へはこれを名指しのうえ、多額の御用金を課した。このうち当地域の松村忠四郎代官所管内で金二〇〇両を上納したのは、七左衛門村野口八郎左衛門、四町野村大野伊右衛門、越ヶ谷町伊勢屋太兵衛、西方村秋山弥之吉などがいる。また増林村榎本家文書「訴書留」によると、木村薫平代官管所内では、武州足立郡川口宿の増田安兵衛、武州久良岐郡井戸ヶ谷村渋谷市右衛門らが金一〇〇〇両を献納している。当地域では、増林村の関根平蔵が少くとも金二〇〇両以上、榎本熊蔵と今井幸助がそれぞれ金二〇〇両を上納している。

第63表 慶応元年越ヶ谷町御用金上納者
金額 住所 氏名
65 新町 永楽屋幸左衛門
60 新町 大野新左衛門
60 新町 松本利兵衛
45 本町 森田藤兵衛
45 中町 塗師屋市右衛門
45 本町 三鷹屋勘兵衛
30 本町 奈良屋新八
30 中町 穀屋忠七
20 中町 小嶋屋弥兵衛
20 新町 角屋久三郎
20 新町 本銚直吉
20 新町 糀屋清左衛門
15 本町 富田屋源六
15 本町 塩屋十馬之輔
10 中町 伊勢屋幸七
10 本町 遠藤重左衛門
10 本町 亀屋甚内
10 本町 堺屋吉左衛門
10 本町 穀屋彦右衛門
10 中町 酒屋市蔵
10 新町 油屋長右衛門
10 新町 釘屋庄七
10 新町 田畑八兵衛
10 新町 糀屋忠兵衛
10 新町 会田久右衛門
10 中町 小島屋佐兵次
第64表 慶応元年越谷地域御用金上納者(松村忠四郎代官所)
割当額 上納金 住所 氏名
200 200 七左衛門村 八郎左衛門
300 200 四町野村 伊右衛門
110 70 四町野村 吉右衛門
100 50 四町野村 織右衛門
200 200 越ヶ谷町 伊勢屋太兵衛
70 40 大沢町 太郎兵衛
50 30 大沢町 権右衛門
50 6 大沢町 佐次右衛門
200 200 西方村 弥之吉
100 70 西方村 吉太郎
100 80 西方村 孫兵衛
100 50 西方村 茂吉

 幕府はこの上納者に対しても、その額により、褒美として帯刀や苗字御免の身分を与え、また報償銀を下付した。その基準は金一〇〇〇両でその身一代苗字帯刀御免二人扶持、金二〇〇両で一代苗字御免、金二〇〇両以下の者には金一〇両につき銀一枚宛下付となっていた。このほか以前に苗字帯刀御免を与えられていた者には、忰の代、あるいは孫の代までの御免が与えられた。

 たとえば増林村の榎本熊蔵と今井幸助は、江戸城本丸普請御用金に金二〇〇両を献納して、その身一代苗字を許されていたが、長州進発御用金にまた金二〇〇両を献納したので、忰の代までの苗字を許された。同じく本丸普請に一代苗字を許された関根平蔵は、このときには孫の代までの苗字を許されているので、おそらく金四〇〇両を献納したのではないかとみられる。

 こうして村々から征長の軍資金を調達した幕府は、翌慶応二年六月に長州征伐に進発した。しかし大坂在城の将軍家茂の死去などのため、征長は完全に挫折し、幕府の権威はまったく地に墜ちたのである。