兵賦の徴用

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幕府は緊迫した政治状勢の危機に対処し、幕府兵力の充実をはかるため、文久二年(一八六二)に兵制改革を断行し、幕府軍を近代的な軍隊に組みかえようとした。このとき一般の農民からも強壮な者を徴用し、幕府の〝歩兵組〟に編成した。この農民から徴用した兵隊を兵賦(兵歩)とも称した。

 七左衛門村井出家文書によると、兵賦は代官支配所単位に、高一〇〇〇石につき兵賦人足一人宛の割合で徴用された。当地域でも兵賦の徴用にしたがい、代官支配所ごとに兵賦組合がつくられたが、このうち松村忠四郎支配所の越ヶ谷町をはじめ二町一三ヵ村高四〇〇〇余石の町村が一単位の兵賦組合に編成された。この組合からは、高一〇〇〇石につき一人宛という割当てにもとずき、慶応元年、四人の強壮な若者が選ばれて兵賦に差出された。

 兵賦一ヵ年の給金は一人につき金三〇両であり、この給金は村々高割徴収による組合の負担であった。しかも兵賦が病気あるいは死亡したときは、早速代人を差出す義務が課せられており、また兵賦が逃亡したときは、逃亡兵賦を出した村が責任を負う定めになっていた。これら徴用された兵賦の収容先は不明であるが、荻島村島村家文書「歩兵組へ申渡書」によると、「当御用につき出府の間」とあるので、おそらく江戸に兵賦を収容する訓練所が設けられていたのであろう。

 この兵賦訓練所は〝屯所〟と呼ばれ、兵歩は一組五人に編成された。この五人組にはそれぞれ惣代が置かれ、相互扶助と相互監視の連座制がしかれている。部屋のなかは畳敷であり、兵賦一人につき、雑具置場といって、部屋の周囲に設けられた棚のうち各三尺が割当てられている。この棚の下には各人の名前札を張り、その前に支給された膳・椀・陣笠を整頓し、その余の空間に自分の所持品を置くことになっており、一人に与えられた寝起の所はきわめて狭い場所であった。兵賦歩に支給されるもののうち、主なものは制服・筒(鉄砲)・脇差などであり、それぞれ名札が付され所定の場所に整頓することになっている。部屋の備品としては、油皿・油さし・大箸・やかんなどであり、これらは朝夕員数の点検をうける。

 また兵賦が日常守らねばならぬ規則のうち主なものをあげると、

(1) 食事は三ツ拍子木の合図で一同食事をとる。刻限におくれてはならない。

(2) 外出のとき以外は制服を着用する。

(3) 不寝番をたてて火の用心、そのほか怪しい者がいないか見廻る。

(4) 非常のときは、太鼓の合図で調練場へ馳集まる。

(5) 玄関などの見張番は威儀を正し、上役の出入には無礼のないよう気をつける。

(6) 奉行衆や頭取衆と会ったときは土下座の礼をとり、その他の役人には足の甲まで手を下げおじぎをする。

(7) 定められた外出日のほか勝手に他行しない。他行するときは許可をうける。

(8) 毎朝太鼓を合図に調練場あるいは稽古場へ遅滞なく集合し、これらの場所では雑談はしない。

(9) 外出のとき帰りの門限に遅れた者は処罰する。外出して三日を経ても帰らないときは町奉行所や代官所に通知し、五日目には出奔の手続きをとる。

(10) 罪人を出した兵賦の惣代・五人組まで咎を申渡す。ただし事前に科人を訴えでたときは罪を問わない。

(11) 成績のよい者は小頭役に登用し小頭役金を支給する。小頭で精勤した者は、小頭取締役に登用し小頭取締役金を支給、そして帯刀を許す。

とあり、およそ西洋式の軍隊調練方法が採用されていた模様である。

兵賦議定連印帳

 なおこの兵賦規則の中でも逃亡の罪は重かったとみられるが、逃亡する者は少くなかったようである。蒲生村の「御触書」(慶応大学蔵)によると、慶応元年に八条領兵賦組合中から兵賦に選ばれた蒲生村の伊之助が、同年十二月兵賦屯所から逃亡した。このため蒲生村は代官役所から再三伊之助の捜索を申渡されていたが、尋ねだすことができなかったので、村役人は過料、そのほか関係者はお叱りの罰をうけ、伊之助は人別帳から帳外しの処分をうけた。その後伊之助は慶応四年四月に青柳村において逮捕されたが、幕府の崩壊後でもあり、間もなく釈放されたようである。伊之助は釈放後同年六月、蒲生村の実家に立戻り、金五両を無心して再び立去ったという。