兵賦の解散

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慶応元年に設置された兵賦屯所は、慶応四年一月の鳥羽・伏見の戦後解散されたとみられ、越ヶ谷町内藤家の「記録」によると、辰二月七日(慶応四年)の日付で、「御公儀兵歩人足御暇につき、越ヶ谷宿へ罷越し、強談をもって金子奪取、猶また持参の品置捨て候」とある。これによると、解散になった兵賦の一団が故郷に帰る途中、越ヶ谷宿で乱暴を働いたのである。

 このとき解散兵賦によって被害をうけた人びとには、金三七両を強奪された越ヶ谷町の新八後家しも、金三両二分と銭九貫文を奪われた越ヶ谷町市右衛門店の弥五郎、金二〇両と晒木綿一〇反を奪われた越ヶ谷中町伊勢屋太兵衛、銭一三貫文を奪われた大沢町の与左衛門らがいる。

 なかには良心的な者もおり、紺股引二足と晒木綿六尺五寸、それに手拭一本の代として花縞木綿一反を置いていった元兵賦や、足袋六足の代として銭一貫五〇〇文を置いていった元兵賦もいる。

 なお元兵賦が越ヶ谷宿へ置捨てていった所持品は、背負文庫が二〇、脇差が二本、鉄砲が一挺、長刀が一振、提灯が二二張、縞綿入が三枚、桐油合羽が八枚、桐油が一枚、煙草入が二つ、笠頭巾が二つ、沓が二足、木綿単物が一枚、合薬入が三つなどがあり、なかには小倉帯や紺の古股引、それに古半天まで捨てていった者もいた。これら解散兵賦の集団による通行狼藉で、町中は一時大混乱を呈したことであろう。