維新の争乱

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第二次長州征伐は、洋式小銃で装備された長州藩諸隊のまえに敗れ、しかも大坂在城中の将軍家茂が病死するにおよび、幕府軍の長州征討は完全に失敗した。この間薩長を中心とした武力倒幕運動が進展したが、公武合体論の立場をとる土佐藩の大政奉還運動が効を奏し、慶応三年十二月、一五代将軍徳川慶喜は大政を朝廷に奉還した。ここに王政復古が布告されたのである。

 しかし徹底倒幕を目ざした薩・長浪士による江戸市中のかく乱工作など、数々の徴発行為が行われたため、幕府軍はついに薩摩藩邸を焼打するに到った。これら、目に余る薩長浪士の徴発行為が大坂に伝わると、会津・桑名の藩兵をはじめ大坂に居た幕府軍も激昂し、翌慶応四年一月、鳥羽・伏見において薩・長軍と交戦した。この戦闘は幕府軍の敗走となり、将軍慶喜は大坂から海路江戸へ逃げかえった。

 朝廷側はこれを責め、徳川慶喜追討の東征軍を編成して江戸に進軍した。途中なんらの抵抗もうけず、同年三月十二日、東征軍のうち東海道軍の先鋒隊は品川宿に到着し、同月二十八日には東山道軍の先鋒隊が大宮宿を通過して板橋宿に向っていた。すでに江戸の総攻撃は時間の問題になっていたのである。この緊迫した軍事状勢も、徳川方が江戸城の無条件明け渡しと、慶喜の江戸退去を容認したことで戦闘は回避され、四月十一日江戸城が無血で開城された。続いて同月二十一日、東征総督府は江戸城に入城し、ただちに軍政を布いた。

 だが江戸城に入った総督府は、徳川氏から政権を引継いだものの、江戸の人びとに対しては全く権威もなく、また支配機構ももたなかったので、諸政はすべて旧幕吏に依存するほかなかった。ついで五月十五日、東征総督府は上野東叡山に立て籠った旧幕軍最後の集団である彰義隊を上野の合戦で壊滅させた後、江戸に鎮台府を設置して民政にあたった。

 この鎮台府は、東征大総督有栖川宮熾仁親王が兼任し、その下に民政裁判所、南・北市政裁判所、社寺裁判所を設けた。いうまでもなくこれは旧幕府の勘定奉行所、南・北町奉行所、寺社奉行所の継承であり、その単なる衣替えであったが、旧幕府の三奉行制を継承することで軍政から民政への切替えがなされたのである。この鎮台府の設置により行政の空白状態にあった関東の旧幕府領と旗本領の村々は、その地の支配代官とともに民政裁判所の系列に組入れられ、江戸鎮台府の支配下に入った。

 その後間もなく地方行政は旧幕府時代からの代官支配を改め、武蔵国には山田一太夫(明治元年六月十九日任)、松村忠四郎(同六月二十九日任)、桑山圭助(同七月十日任)の三代官が武蔵知県事に任命された。当地域では、それまで代官にあった佐々井半十郎が同年七月二十九日に免官となり、このあと山田一太夫と松村忠四郎の立会預りとなったが、同八月十三日越ヶ谷町をはじめ、当地域のおよそ南半分が桑山圭助、北半分が山田一太夫の分割支配に置れた。これら旧幕吏による知県事も翌明治二年一月から二月にかけて武蔵国が品川県・大宮県・小菅県の三行政区に分けられるとともに更迭され、東征軍諸藩から抜擢された役人が、県知事と名称も新たにこれら行政区の支配に任命された。越谷地域では、もと山田一太夫の支配下にあった増林村・平方村などの諸村が大宮県(同年九月浦和県と改称)に、桑山圭助の支配下にあった越ヶ谷町や蒲生村などの諸村が小菅県の管轄下に置かれた。

 松村忠四郎長為→古賀一平(明治二、二、九) 品川県

 桑山圭助効→河瀬秀治(明治二、一、一三)小菅県

 山田一太夫政則→宮原忠英(明治二、一、一八)大宮県

 また、総督府は、慶応四年六月、新たに制定された大政官高札を、旧幕府の高札と取替えるべき布告を達したが、同年七月には江戸を東京と改称し、さらに同九月には年号を明治と改元した。この頃江戸鎮台府は廃止され、新たに鎮将府が設置されたが、これにともない社寺裁判所が廃止され、その業務は地方官に移された。南・北市政裁判所もその後新たに設けられた東京府に吸収されたが、民政裁判所は後に会計局となり、さらに大蔵省に改められて中央官庁の中に組織されるようになった。こうして旧幕府の三奉行制は逐次解体するに至ったのである。