幕末越谷地域の情勢

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このような激変を辿った維新期の情勢を、当地域の史料によってみると次のとおりである。まず越ヶ谷本町内藤家の「記録」には、慶応四年一月、将軍徳川慶喜の罪状をしたためた朝廷側の京都高札の写しや、慶喜追討の東征軍の陣容などが記されてあり、さらに、

 押て来る鎮撫の籏のいろを見て 青菜に塩の関東人心

 一つ橋二つ掛替なき命 くいてなみだのかわく間もなし

 会津椀一杯くうて逃出し 跡の二の膳何所でくうやら

 東民の竈のけむり高松に たつとしきかば元へ復らん

 徳川の末にかけたる一つ橋 うき世の人の渡る瀬もなし

などという徳川勢を諷刺した狂歌を載せており、すでに庶民は時勢の流れを感じとっていたことが知れる。

大政官高札

 また蒲生村慶応四年の「御触留」(慶応大学蔵)によると、三月二十七日、東征軍東山道筋官軍先鋒隊勅使岩倉具視の通行があり、中仙道大宮宿から人馬触当のとおり人馬を差出すべく、明二十八日昼時までに大宮宿に着到し、官軍先鋒隊の加助郷を勤めるべし、という趣旨の廻状が西方村や瓦曾根村はじめ、定助郷免除村々である八条領一五ヵ村に達せられている。官軍通行のため、八条領村々からも距離の遠い中仙道大宮宿へ人馬がかり出されていたのである。

 さらに四月十四日には、各寄場組合単位に官軍兵食賄用として、高一〇〇石につき白米三俵と金三両宛を、同月晦日までに品川宿官軍賄所へ上納するよう官軍方から厳命されており、官軍による兵糧米ならびに戦時資金の徴発がおこなわれていたことが知れる。

 また内藤家の「記録」によると、四月十八日の日付けで、「今七ツ時頃板橋出立、薩州御人数、土州人数、遠州人数都合千五百人御通行に相成り、もっとも此儀は下総小山宿辺まで御公儀浪人ども征伐のため、右薩州様家来八人手前御宿致す、右旅籠代として金一両と一貫六百文御下げになり」とあり、薩・土・遠州の官軍方が日光道中を小山に向い、途中越ヶ谷宿に一泊するなど、官軍に抵抗を示す旧幕臣や諸藩士の討伐に向うあわただしい動向の一端を記している。

 さらに越巻村「産社祭礼帳」では、「夏より秋まで官軍奥州征伐、往還大通行、天子様江戸へ御下向、東京府と御改め、諸事御政道筋御一新と御触にて相改り候事」とあり、大沢町鈴木家文書には「慶応四年四月二日より官軍方諸大名奥州へ追々くり出し、同五月十五日江戸上野大合戦、御宮様奥州へ参り日本国中大乱大合戦、同七日大雨にて大水、同二十二日玄米両に一斗」と記している。日本国中大乱大合戦と感じとり、国内状勢の変動に不安をかくしきれない庶民の心情がここからもうかがえるのである。

 ことに、大鳥圭介を総督に、土方歳三を参謀とした桑名藩兵を含む幕府脱走兵の集団数千人が、四月十二日、下総国市川に集結して再挙をはかっていたことは、当地域にも戦乱の緊張をもたらせていた。この間下総国流山町に大久保大和と名を変えてひそんでいた元新選組隊長近藤勇が、官軍方に逮捕され、越ヶ谷本町の名主富田屋伊左衛門方に一泊して板橋宿官軍本部に護送されたと伝えられている。官軍本部に送られた近藤勇は同年四月二十五日、板橋で処刑された。

 この幕府脱走兵下総騒動に関連したものとみられる一件が、増林村榎本家「訴書留」慶応四年四月二十四日の記事にみられる。それは常州真壁郡坂井村百姓勝吾が、増林村地内で官軍方に捕えられ、野州壬生城に引立てられた一件である。壬生城に送られた勝吾は、官軍方の取調べをうけた後、代官大竹左馬太郎に身柄を引渡され、越ヶ谷宿で改めて取調べをうけた。勝吾の罪状容疑は、〝精忠〟と書入れた鉢巻、菰包みの大小刀三本、それに血染の帯剣を所持していたので、流山脱走の徒とみられたのである。

 勝吾の申立によると、常州真壁郡坂井村地頭の用人原権右衛門が供一人を連れ、勝手方賄向の所用で坂井村をおとずれた際、帰路の道案内を勝吾が頼まれて同行したという。一行は四月二十三日に流山村で一泊し、翌二十四日江戸へ向ったが、すでに吉川村を中心に古利根川筋は官軍方が警備にあたっていた。このため原権右衛門ほか一人は赤岩村の旅宿で武装を解き、大小刀そのほかを勝吾に預け、越ヶ谷町鍋屋清左衛門方で落合うことにした。勝吾は原権右衛門に命ぜられた通り、赤岩村旅宿から松伏村を通り増林村に差しかかったところ、官軍方の手先に逮捕されたという。取調べの結果、勝吾は幕府脱走兵の一味とは関係ないと認定され、故郷坂井村の親類・役人に引渡されることになった。

 なお原権右衛門らが所持した鉢巻の文字〝精忠〟は、下総国市川に集結した幕府脱走軍の隊伍編成のなかに、精忠隊の名もみられるので、あるいは原権右衛門らは精忠隊の一員であったかも知れない。これら幕府脱走軍団は、各所で官軍方に撃破されたが、市川・船橋方面の戦闘軍団は、閏四月二日の戦闘でことごとく潰滅した。