治安の混乱

1276~1277 / 1301ページ

戊辰戦争を中心とした維新の動乱は、当地域をも広くまきこんで大きな混乱を招いていたのは前述のとおりである。しかも慶応四年の春から秋にかけては、新政府による地方の支配機構が確立していなかったので、たとえば当地域村々の訴願や諸届の提出先は、旧幕府の代官役所であったり、関東取締出役であったり、維新政府の勘定方であったり、民政裁判所であったり、あるいは岩槻役所であったり、稲田藩役人中であったり、武蔵知県事であったりするなど、目まぐるしく変化したので、村びとは責任のある役所を求め、大きな戸惑いを感じていたようである。ことに村々の治安取締りは、慶応四年四月に関東取締出役が廃止されたので、無警察的な状態に置かれ村々の治安は極度に乱れた。

 すでに強盗や窃盗は幕末期から村々を横行しはじめていたが、幕府と維新政府の交代期である慶応四年に入ると、多人数による凶悪な押込み強盗が頻繁に発生した。

 たとえば増林村榎本家「訴書留」によってみると、慶応四年四月、増林村百姓弥助方で、「夜四ツ半時頃、南の方雨戸押破り、面体存ぜるざ男三人押入り、内二人抜身携え手拭にて鉢巻致し、一人身支度失念、有合せの金銭差出すべく、声立て候はゞ切殺すべく申しおどし」金三分三朱と銭二貫四〇〇文を強奪されたのをはじめ、同じく五月には同村百姓与市表方の「潜戸押破り、面体存ぜざる男七、八人押入、内二人後鉢巻襷掛けにて、二人は頭巾様のもの冠り、外三、四人の義は身支度失念、家内一同共麻縄にて髪の毛へ引通し置き、申聞せ候は、官軍御用先入用差支えにつき、有合せの金銭差出すべく」とて、官軍の名を使った押込み強盗の一団が、金五〇両と銭七〇貫文、それに脇差二本を強奪していった。

 ついで同年六月には、同村百姓平蔵方へ「同夜八ツ時頃、表方入口潜戸打破り、手拭にて面体を隠し、或は白木綿をもって後鉢巻ならびに襷を掛け候男四人押込み、銘々抜刀たずさえおり、帯にて家内一同縛りあげ」銭七貫文と脇差を強奪していった。

 さらに九月に入ると同月十七日同村百姓勘兵衛方で「同夜八ツ半時頃、裏方雨戸打破り候場所より、およそ七、八人面体を隠し押入り、銘々抜刀をたずさえ家内のものども残らず縛り置き」金八両と銭五〇〇文、それに煙草入れが奪われた。続いて同月二十日にも同村百姓市郎兵衛方で「同夜八ツ時頃、表入口戸敲き呼起し候者これあり、およそ夜中いずれの人に候や相尋ね候処、更に申聞せず、戸明け申さず候はゞ火をつけ焼払い候旨申立候」につき、驚いて戸を明けると「一向見知らざる候男一人抜身をたずさえて押込み」銭四貫文と木綿袷などの衣類二点が奪われた。

 また翌明治二年一月十九日には、同村百姓勘兵衛方へ「同夜八ツ頃、表入口潜戸相破り、一人は面体を隠し短筒を持ち、四人は鉢巻いたし銘々抜身をたずさえ」て押入り、家内の者を縛りあげて金五両と衣類、それに鎗一筋を強奪した。このとき近所の地借浄円が勘兵衛方に強盗が押入ったのを知って駈けつけたが、途中盗賊と出会い、その場で賊に切り殺された。

 このような物騒な世情に対し、村々では、「この節私ども村々最寄一般に、夜毎強盗どもが一〇人、二〇人位の集団で押込み、金銭を強奪するばかりでなく、家内の者を切り殺したり疵を負わせたりしている。それで私どもは心配で夜も安心して寝られないし、農業耕作にも差支え難渋している。どうか取締りの役人が出張してきて村々の治安をはかってほしい」と、知県事山田一太夫役所へ訴えでている。しかし維新政府は旧幕勢力の追討に忙しく、民政には手が廻らなかったので、村々では自衛のための警備手段を講ずるより方法がなかった。