慶応三年(一八六七)十二月九日、王政復古の大号令により幕府の廃止が宣言され、新政府の方針と組織が決定された。新政府は一五代将軍徳川慶喜に対し辞官納地を迫った。しかし、徳川氏そのものを否定したのではなく、一大名なみとして存続させることを認めたから、ただちに徳川権力の廃止にいたらず、京都の新政府内部に徳川氏を中心とする諸大名の、雄藩連合政権を持続する途を残すことになった。これより、鳥羽・伏見戦争で幕軍が劣勢となるまでのほぼ一ヵ月間は、新政府内の討幕派と連合政権派のせめぎ合いの時であった。
両派の対立は、江戸を中心とする関東では、治安維持とその攪乱による討幕機運のもり上げの動きとして表面化し、政局の目は三田の薩摩藩邸にあった。相楽総三を中心とする薩藩邸に集合した討幕決行の浪士隊は、野州出流山(いずるさん)の挙兵、甲府城攻略、相州荻野山中藩の陣屋(現厚木市)の襲撃をくわだて、徳川幕府の力を分散させ、江戸の街の力を弱めることをねらって行動を起している。越谷地域への布達にも、これら浪人体の怪しきものを見つけ次第、羽生町陣屋か岩鼻陣屋(現高崎市)ないしは取締出役に届け出し、手あまりの場合は打殺すよう命じている(「御用御触書控帳」島村家文書)。各町村には見張所が設置され、取締りは一段ときびしさを増した。
慶応四年一月一日、慶喜は「討薩表」を朝廷に提出し、討幕派の中心勢力であった薩摩藩の討伐を表明し、諸藩に挙兵の参加を求め、天領(幕府直轄領)の村々に対しても、「薩賊余党」の討ち取りを命じている。越谷地域の村々へは各支配者を通じて布達されたが、代官佐々井半十郎支配の天領村々へは、正月十日付で次のような廻状(蒲生村「御触留」慶応大学蔵)をまわしている。
旧臘以来、松平修理太夫(薩摩藩主)の奸臣共、竊に陰謀を企て朝廷を軽蔑いたし、殊賊徒共を唱導之、江戸長崎野州所々え乱暴劫盗およひ、御国を乱し候条難御捨置
とて、薩摩藩の家来どもが朝廷をないがしろにし、江戸、長崎、野州の各所で乱暴しているが、これは放置できないことであるとして、罪状を次のごとく列挙している。
(1)去月九日、非常の変革を口実に、幼主(明治天皇)を侮り私論を主張したこと。
(2)先帝の依頼された摂政を廃止したこと。
(3)御門警衛として他藩を煽動し、兵を朝廷に向けたのは大不敬であること。
(4)浮浪の徒を集め、江戸市中で押込み強盗をはたらき、酒井左衛門尉屯所(江戸警備)へ発砲したうえ、野州・相州で焼討ち強盗を行ったこと。
(5)城州伏見辺で奸賊が理不尽に発砲したこと。
これら罪状を書きしたためて、各村の高札場か村役人宅前へ張り出すよう命じている。徳川氏もまた天皇を名として、王政復古のクーデターにより自分を追放した討幕派への、まき返えしをねらっていたのである。