戊辰戦争の発生

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このような布達が、越谷の村々で張り出されたころ、すでに罪状にもみられるように京都の南方、鳥羽・伏見において大規模な戦闘が開始されていた。三日の早朝より始まったこの戦いは、薩長両藩を中心とする討幕軍五〇〇〇と、幕府および会津・桑名両藩を中心とする一万五〇〇〇の軍勢とが激しくわたり合い、六日には兵力の少ない討幕軍の勝利があきらかとなっている。これより以後、約一年半にわたる討幕のための国内戦争を、戦われた慶応四年(明治元年)の干支にちなんで戊辰戦争という。この戦いは、単にまき返しをねらった幕府のみならず、やがては藩までも否定する統一国家へと歩み出す大きな意味をもったのである。

 七日には新政府は徳川慶喜追討令を発し、諸大名に対し、この方針に忠誠を誓うことをせまった。九日には、さきに任命されていた東海道鎮撫総督橋本実梁のほか、東山道鎮撫総督に岩倉具定、北陸道鎮撫総督に高倉永祐を決定し、幕府追討の部署を定める一方、翌日には天領を朝廷の直轄領とする旨を宣言している。十七日には新政府内の職制もさだめられ、二月三日には天皇親征を発表し、東征大総督府(大総督 有栖川宮熾仁親王)を設置した。

 三月十四日には五ヵ条の誓文を発表し、新政府の基本方針をさだめている。ちょうどこの時、大総督府は駿府にあり、東海道先鋒総督(鎮撫総督の改称)は沼津に達し、その先頭部隊は品川にせまり、東山道先鋒総督も板橋駅に到着し、その参謀板垣正形(退助)は府中駅に進出し、翌十五日を期しての江戸進撃にそなえていた。また、この日江戸高輪の薩摩藩邸では西郷隆盛と勝安房守義邦との会見が行われ、慶喜の謝罪と江戸進軍の延期が話し合われている。結局、この会談により江戸開城は四月十一日となった。

 幕府の倒壊で、越谷地方の天領は自動的に朝廷領にくみ入れられることになった。この過程で恩間村・同新田・大竹村・大道村・三之宮村・大松村・谷中村・西新井村の一部を支配していた岩槻藩の領主大岡主膳正忠貫は、四月十七日、東海道先鋒総督あてに朝廷に忠誠をつくす意味の勤王請書を提出し、見田方村・東方村・千疋村・別府村・南百村・麦塚村を支配する忍藩主松平下総守忠誠は、三月十日に勤王の誓書を差出し、四月六日に嫌疑が晴れて入京を許されている。砂原村・後谷村を支配した六浦藩主米倉丹後守は、二月十八日に勤王証書を東海道先鋒総督府に提出し、官軍に助勢している。これら各藩はいずれも本領安堵され、越谷地方の村々をひき続き支配することになっている。