このような越谷地方に、新政府の最初の指令が達せられるのは三月も中旬にはいってからである。佐々井半十郎支配の天領村々へは、三月十二日付の深谷宿問屋・年寄連名の廻状として、東山道総督府執事の名をもって布達されている。王政一新により天皇自ら親政し、有難き政治をおこなう筈であるから、金品を強奪し諸民を欺く悪徒どもに惑わされずに家業に精を出し、もし悪党を見かけたら早速訴え出よ、とするものであった。岩槻藩でも十八日付で、乱暴をはたらく百姓は理由があるであろうから、その子細を調査し生活を営めるようとり計らうが、もし官軍通行を妨げるようなことがあれば、朝敵として討取ることを達している(「御用御触書控帳」島村家文書)。東山道総督府の命を、そのまま村々へ廻達したものであった。ついで官軍先鋒の斥候隊より官軍通行に際しての、助郷人馬の徴発が命ぜられたが、まず最初に治安維持がはかられねばならなかったのである。
以後、官軍総督よりの諸布達が、従来の幕府の高札にかわって村々の高札場に掲げられるようになっていった。四月三日には流山に集結していた新選組の隊長近藤勇が逮捕され、この夜、越ヶ谷宿に一泊し、翌日に板橋駅の官軍本部へ護送されている。四月十四日には東海道先鋒総督府の会計方より官軍兵粮を村高一〇〇石あたり白米三俵、金三両あて提出を命ぜられている。治安関係では、かつての代官佐々井半十郎より武総鎮撫方の松濤権之丞の出張が伝えられ、また新たに鎮撫方頭取として江川隼太が任命され、その手代が各村を巡回することになった。村々では数ヵ村が組合となり、「強壮之人」(「御用留」慶応大蔵)二〇人を選んで村役人の村落治安取締の補助をさせている。たとえば西方・蒲生・登戸・瓦曾根村の四ヵ村は西方村名主弥之吉、吉重郎、蒲生村名主弥三郎、登戸村名主八右衛門、瓦曾根村名主中村彦左衛門を世話役として、村内よりえらばれた強壮のもの二〇人がこれに付属し、治安維持にあたっており、見田方・南百・別府・四条村なども同様な体制をとっていた。
四月二十八日ごろより関宿・栗橋辺が物情騒然となり、水路の守備がかためられるにおよんで、閏四月二日には芸州(広島)藩兵による綾瀬川番所の警衛が開始されている。これにともない警備上、綾瀬川の米穀積船の出入が停止されたが、翌三日には綾瀬川つき三四ヵ村の村役人惣代は、官軍の警衛場に村印鑑を提出し、積荷の明細証を持参することによって通船できるよう歎願している。村印鑑は北陸道総督府より綾瀬川番所へまわされて通船が許可された。当時、千住方面の守備は北陸道総督(参謀、山県有朋・黒田清隆)に委ねられていたのである。
警備は二十三日ごろまで継続されたらしく、その模様について当時の新聞は次のように伝えている。「芸州人数、綾瀬通りの船調見張番所に八、九人居候由、又綾瀬橋之傍、百姓家へ弐百人ばかり屯(たむろ)いたし居候処、同日八ツ時ごろまで通船相調候て夜に入、こと/゛\くひき払、其人数廿四日四ツ半時頃、竹の塚へんへくりいだし候て、同日日光道へ出張のよしなり」(「新聞事略」第六号、幕末明治新聞全集六)と。この時おこなわれた河川統制の体制は、やがて発展し二年には葛飾郡下今井村(現東京都江戸川区)に「諸国物産積荷改番所」がおかれて江戸川通船が取締られ、さらにのちには同郡丹後村(現三郷市丹後)で江戸川・利根川・庄内古川の船改めが、元荒川・中川・古利根川は同郡平沼村(現北葛飾郡吉川町)で、綾瀬川は草加宿甚左衛門河岸で改められるようになっている。