武蔵知県事

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五月十五日は江戸で彰義隊の上野戦争が行われ、十九日には江戸に鎮台府が開設され、かつての寺社・町・勘定の三奉行にかわって寺社・市政・民政の三裁判所が設置され、関東支配の体制が整えられはじめている。鎮台府は六月十七日に上州に岩鼻県をおき、十九日には忍藩士の山田一太夫政則を新政府の武蔵知県事に登用し、武蔵・下総の旧代官佐々井半十郎・大竹左馬太郎支配の村々を取締らせている(のちの大宮県)。知県事は支配地の民政全般に関する責任者であり、農民蜂起などの非常時に際しては、近隣諸藩より出兵をうながして指揮する鎮撫使の役割をも担ったのである。七月十七日には江戸が東京と改称され、鎮台府にかわって鎮将府がおかれた。関東地方はこの鎮将府の管下にはいり、知県事と藩によって支配されている。

 越谷地方の村々が、この新しい支配体制に組込まれるのは七月末である。山田についでまもなく武蔵知県事となった松村忠四郎(旗本、旧代官、のち品川知県事)は、各村に対し旧代官よりの支配替を通達したのは七月二十九日であった。しかし、八月四日には、のち小菅県となる村々は桑山圭助(旧旗本)の支配するところとなっている。新政府の創始の時であったから、支配のしくみも支配役人もめまぐるしく変化したのである。それでも、支配の長官が決められたことで、越谷の村々へも従来にまして新政府の方針が伝えられやすくなった。