人民告諭の大意

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九月八日には明治と改元され、越谷の村々へもこれが伝えられている。この頃には、八月末より激しさを加えていた会津戦争が、ようやく官軍がわの勝利に帰しつつあった。十月十三日には九月二十日に京都を出発していた明治天皇一行が同年七月十七日に東京と改称された江戸に到着したが、十八日には天皇親政のゆえをもって鎮将府が廃止され、太政官支配となった。越谷地方の村々へは江戸時代の寄場組合および大小惣代制度の維持が通達されている。

 この頃のことであろうか、越谷の村々へ「人民告諭大意」が布達された。新政府成立の地の京都において、すでに民衆啓蒙の意味を含めて通達されていたものである。正式には京都府人民告諭大意という。新政府の支配に属した地域の人民支配には、まず、この方針が明示されたのである。越谷では七左町井出家、増林の榎本家にこの写しが残っている。これによれば、天子は「仮令(たとひ)如何なる御患難に逢せられたまふとも、下民の苦しみ見るに不忍との御事にて、遂に此度王政復古諸事正大公明にして上下心を一にし、末々に至るまで各其志を遂させ、益(ますます)安穏に世渡を営」ますべきことを述べている。幕府の弊政を改革し、人民の困窮を救うとの、仁政主義の国政方針を宣伝しているのである。この国のすべてのものは天子様のものであるから感謝すべきことを述べ、王政復古が人民の苦しみを見るにしのびない結果であったことを主張している。このような宣伝を、村びと達がどう受けとめたかはさだかではない。当時の史料によれば、一般世人はほとんど注意しなかったようである。とはいえ、当時、市域の村々では村びと一人ひとりが捺印した「御布告之趣小前請印帳」が残っているから、右のような布達は村びとに読み聞かされたと思われる。この告諭大意は、村びとの間にはじめて天皇が登場する最初の意義を担ったものと思われる。

人民告諭大意