新県の誕生

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明治二年正月十三日に小菅県が、同月二十八日には大宮県が誕生した。さきに、関東地方では岩鼻県(のち群馬県)、真岡県(のち栃木県)、韮山県(のち神奈川県)が設置されていたが、二年にはいり再び新県がおかれるようになったのである。小菅、大宮県の設置と同じころ、日光県、葛飾県、品川県などのほか若森県(のち茨城県)、宮谷県(のち千葉県)がおかれている。当時、ほとんどの藩は本領安堵され、実際の支配を続けていたから、これらの新しい県は、旧幕時代の天領および旗本領を支配したのである。

 小菅県は旧郡代屋敷のおかれた小菅村(現東京都葛飾区小菅)に県庁が開かれたための県名であり、知県事には武蔵知県事で桑山圭助の後任の河瀬外衛(秀治、宮津藩出身)が就任している。この県は現在の東京都千住、千葉県松戸、埼玉県越谷をむすぶ中間にくらいする三〇〇余村を支配する県である。市域では越ヶ谷宿、大沢町、西方村、登戸村、瓦曾根村、蒲生村、大間野村、七左衛門村、越巻村、伊原村が属し、三年六月には四丁野、神明下、荻島、西新井、長島、大房、花田の諸村が編入されている。

 越谷地方の他の旧天領村々は、武蔵知県事で山田政則の後任、宮原忠英に支配されていたが、大宮に県庁が設置されるにおよんで大宮県と称され、その所属村となった。大宮県はやがて名古屋藩出身の間島冬道を知県事にむかえ、九月二十九日には浦和県と改称されている。大宮県の支配地は、足立・埼玉・男衾・横見・大里・豊島諸郡にわたる高三三万石余の村々であった。市域における所属村々は平方、大泊など二六ヵ村である。これらを含め、市域全村の府県統合の状況を表示すると、第1表のようになる。朝廷政治が復活したとはいえ、いまだ藩が存続しており、市域の統合さえもが埼玉県の成立をまたねばならなかったのである。当時は藩や県のほか、東京府や神奈川府がおかれており、廃藩置県までのほぼ四年間を、行政機関の名にちなんで府藩県三治時代という。

第1表 越谷地方村々の府県統合状況

 新県の設置により藩支配の村々も維新政府の指示により、新しい施策が行われるようになるが、なんといっても府県支配の村々に、新しい方針はより直接的に実施されている。新県設置でまず市域で行われたのは、村明細帳や村絵図の提出である。明細帳は村高、反別、年貢、用水状況、反当種肥料、助郷、河川、橋梁、普請、農間稼、村方の貧富などの村落概況と担税能力を知りうる基本史料であり、新しい支配のためには必要不可欠のものであった。