まず、小菅県の支配体制についてみよう。県成立当初の急務は治安対策であった。戊辰期の騒乱を、江戸時代からの行政・治安の単位であった寄場組合、大小惣代の制度を利用して切りぬけたが、新県の成立で早速これらが廃止され、県内かぎりの地域的な組合に編成替えされる。市域では伊原、登戸、蒲生、西方、瓦曾根の諸村が、ほか現草加市に属する一九ヵ村とともに八条領組合を編成し、越ヶ谷、大沢町は大間野、七左衛門、越巻村およびのちの編入村とともに越ヶ谷領組合となっている。
この組合村々にはそれぞれ一ないし二名の「触元」役がおかれた。越ヶ谷宿の大野佐平次、八条領では八条村宗兵衛、青柳村伝左衛門(のち後谷村増次郎、川崎村佐藤平次郎、上馬場村浜野弥右衛門)らがえらばれている。これら触元役は県下で二八名に達し、議者として県庁の諮問をうける立場にあった。また、名称にもみられるように県庁の触、つまり布達を各村の名主へ伝達する元締の意味をもつ、大庄屋的存在でもあった。したがって、県庁より命ぜられる新施策全般の、民間での実施状況を監視する責任者でもあり、村役人が行政の末端であるとすれば、そのとりまとめ役でもあった。当時の行政上の主要な課題は、窮民救助、物産興隆、年貢収納であったが、これらを総合して打開するために発行された金札の取扱人でもあった。彼らはまた一方では治安の責任者でもあった。はじめ草加宿に小菅県出張所(取締所ともいう)がおかれたが、その廃止後は大沢町に小菅県取締所が設置されている。村々にも取締所が設けられ、越ヶ谷宿には見張所が取りたてられて治安体制が整えられた。各組合では、のちの警官の前身である捕亡方(ほぼうかた)附属も決められていた。八条領村々では三人、越ヶ谷領村々では大沢町の島根荘三ほか五人がえらばれている。彼らは寄場体制のもとで道案内をつとめた者たちであった。