学校と種痘所

14~15 / 1164ページ

河瀬知県事が開明的な官僚であったことから、小菅県は全国的にも独自な施策が早くから行われている。その一つは学校の設立で、明治二年六月から県立仮学校が小菅村の正覚寺におかれ、翌月から開校された。この仮小学則によれば、

  一、六日  定休

  四、十九日  会議につき昼後休

  二、七日   小学講釈

  三、八日  未ノ刻ヨリ 牧民、忠告、心鑑

  四、九日  〃     孟子輪講

  五、十日  〃     小学講話

               千住二丁目慈眼寺

となっている(「御触書留帳」慶応大蔵)。県庁役人および村役人を主とした学校のようであるが、もちろん一般の村びとも出席することが許されている。十月からは草加宿東福寺(十日)において小学講話が行われている。三年にはこれを郷学校と称し、一〇歳以上の入校希望者を募っており、同時に「村学堂」設立を命じている。西方村では大徳寺を学校とすべき希望を表明したが、実際に開設されたかは不明である。明治五年の学制頒布によって、全国的に実施される小学校の先がけであったといえよう。

草加東福寺

 このほか、小菅県では早くから種痘所が設立されていた。千住三丁目に用薬所も開設され、貧民も含めて実費治療を行なっている。明治三年二月には、種痘所が廃止され、かわって仮病院・薬局が設けられ、各村の医師による種痘はこの薬局の監督下に統一された。このとき草加病院も設けられている。のち、明治六年ごろには越谷地方には一九人の医者がいたが、その後、西方村の浜野頼直、増林村の今井玄晋らにより大沢町の旧本陣に杏林社病院が開設された。さらに種痘出張所も大沢町に開設され、仲井良泰、伊藤雄斎、河村宗謙、岩松泰庵ら近在の医師を動員して、越ヶ谷組合(小林・神明下・四丁野・大沢)、瓦曾根組合(西方・登戸・蒲生)、七左衛門組合(越巻・谷中・西新井・後谷・大間野・長島)、大林組合(大房・大里・上間久里・袋山・荻島・弥十郎)、増林村組合(増森・中島・花田)などの組合にわけ、種痘定日がきめられて実施されている。小菅県は医療体制の面でも先鞭をつけたのである。