小菅県の設けられた明治二年は、凶作による不景気であったことも関係して、新政の中心は治安対策や教育の普及、衛生機構の確立による人口育成の政策のほか、困窮人の救助も要請されている。もちろん、旧来も村内の富裕な村びとによる恩恵的な救済が行われてはいた。これを一県規模で統一的に運営し、しかも村々の殖産事業と結びつけて具体化したものが報恩社仕法とよばれる方法である。これは当時、新政府が貨幣の欠乏を補うために発行した楮幣(ちょうへい)、つまり金札の流通を円滑にするという目的も、あわせもって実施されたのである。
報恩とは天の恩に「報謝」する意味である。すでに明治二年五月に民部省より許可され、十一月ごろより具体化されている。県下各村より富裕な同盟者(これを義民ともいう)を募り、金銭・米穀を提供してもらい、これを積み立て、その運用によって貧民を救助しようとしたのである。当時、越谷地方の村々より出資された報恩社金は、第2表のようになっている。最高は四丁野村伊右衛門の一八五両、ついで蒲生村の重兵衛および治助の一五〇両、七左衛門村八郎右衛門の一三〇両などが大口の出資者であった。越谷地方では合計五四二人より六〇七九両の出金がみられている。小菅県全体では約七万両と米二九四石が、総計六一二六人の義民より出資されている。この金穀を貸出金、施行米、施法金にわけて運用しており、県全体の精算は第3表のようになっている。
出金額 | 1両以下 | 1.1~3 | 3.1~5 | 5.1~10 | 11~15 | 15~20 | 21~30 | 31~40 | 41~50 | 50~70 | 71~100 | 100両以上 | 合計人数 | 合計額 | |
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村名 | |||||||||||||||
瓦曾根村 | 6 | 7 | 1 | 2 | 2 | 1 | 19 | 259両2分 | |||||||
越ヶ谷宿 | 10 | 17 | 15 | 17 | 10 | 10 | 1 | 1 | 2 | 1 | 84 | 850両 | |||
大沢町 | 33 | 28 | 14 | 8 | 1 | 3 | 1 | 88 | 355両 | ||||||
西方村 | 10 | 7 | 8 | 3 | 4 | 1 | 1 | 1 | 2 | 37 | 506両 | ||||
大間野村 | 1 | 1 | 1 | 3 | 115両 | ||||||||||
登戸村 | 2 | 5 | 1 | 2 | 11 | 168両 | |||||||||
蒲生村 | 13 | 14 | 13 | 4 | 5 | 1 | 2 | 52 | 695両1分 | ||||||
七左衛門村 | 1 | 9 | 5 | 4 | 1 | 1 | 1 | 22 | 402両1分 | ||||||
越巻村 | 3 | 2 | 5 | 55両 | |||||||||||
四年二月 新規加入 | 四丁野村 | 6 | 5 | 6 | 5 | 1 | 1 | 1 | 2 | 1 | 28 | 600両 | |||
西新井村 | 5 | 4 | 13 | 7 | 9 | 38 | 389両 | ||||||||
長島村 | 2 | 1 | 2 | 1 | 6 | 152両 | |||||||||
荻島村 | 1 | 2 | 17 | 13 | 14 | 1 | 3 | 3 | 2 | 56 | 683両 | ||||
神明下村 | 2 | 6 | 3 | 2 | 3 | 4 | 5 | 2 | 27 | 378両 | |||||
花田村 | 6 | 7 | 6 | 9 | 5 | 33 | 199両 | ||||||||
大房村 | 1 | 11 | 9 | 4 | 4 | 3 | 1 | 33 | 272両 | ||||||
計 | 54 | 111 | 106 | 110 | 65 | 35 | 24 | 15 | 8 | 4 | 6 | 4 | 542 | 6079両 |
「報恩社法録」小沢家
明治3年春出金穀総高 | 米 294石3斗2升 | 金 6万9819両 永33文5分 | |||
明治3年 | 総高のうち | 助精金 | 2万8516両 米 104石3斗 | 村々へ貸出元金 | |
施行米 | 6484両2分 永 140文(此支那米 810石5斗8升) | 米 189石4斗2升 | |||
施法金 | 3万4818両1分 永 143文5分 | 大蔵省へ預金 | |||
此利2650両3分 永 101文1分 | 年1割2分 | ||||
内 | |||||
施行米買入・倉庫諸費 | 224両3分 永 567文7分 | ||||
脱社村々分利子 | 65両1分 永 102文7分 | ||||
社中義民へ割戻分 | 2360両 永 180文7分 | ||||
明治4年 | 助精金 | 2万9253両1分 永 121文5分 | 村々へ貸出元金 | ||
施法金 | 3万5570両2分 永 100文9分 | 大蔵省へ預金 | |||
此利 4235両1分 永 342文2分 | 年1割2分 | ||||
内 | |||||
暴風雨罹災窮民救助代 | 2035両1分 永 61文7分 | ||||
窮民救助代 | 53両1分 永 30文4分 | ||||
救助米補欠買上 | 8両1分 永 131文9分 | ||||
籾扇立諸道具代 | 3両 永 80文3分 | ||||
社中義民へ割戻分 | 2135両1分 永 287文9分 | ||||
明治5年 | 助精金 | 3万1785両2分 永65文1分 | 村々へ貸出元金 |
(小菅県)
注 (1) 明治4年正月 豊島村外9カ村脱社,同年2月四丁野村外6カ村入社
(2) 明治5年「報恩社積穀書類」(東京都公文書館)
施行米は米穀を小菅村および瓦曾根村に囲穀して、非常の場合の救済にそなえ、施法金は大蔵省に預金し、その利息をもって施行米の不足をおぎなうとともに、残りは義民へわり返すものとされている。貸出金は出資額の四〇%が貸出され、一般農民の肥代金にあてられた。この肥代金の貸借状況をみると、七左衛門村の場合、五二人があわせて一六〇両余を借りている。二人の義民のほかは一般の村びとである。生活のごく困窮した者へも貸出されているが、大部分は村内の中堅ないしそれ以下の人びとである。つまり、報恩社金は殖産資金としての貸出しというよりは、生活維持資金の性格をつよくもつものとなっていた。