右にみられたような村々の情況は、大宮県に所属した村々でも大同小異であった。ただ当初は寄場組合の制度をそのまま存続させたから、治安維持は継続して注意されている。村落財政の負担を軽減するため、村役人の数をへらし村役人の不正のないように指示し、あらためて公選による村役人をえらぶことを布達した。治安と関係する質屋・宿屋に対しては、取扱品および旅人の出所・進退を明記するように命じている。この村役人改革で増林村では、村内の三組に名主三人・年寄一七人と合計二〇人いた村役人を、名主三人・組頭一五人に改正し、過渡的な措置であろうか当分のあいだ組頭三名が残されている(越谷市史(六)一五九頁)。また、箱訴と称する目安箱への訴えが多くなっていたことから、村役人・大小惣代の公平な処置を命じており、旧来より大小惣代に付属していた「道案内」を廃止し、直接的に県庁の統制下にはいる「捕丁」が設けられた。寄場親村ごとに捕丁一人、捕丁助一人をおき組合村々で月給を支払うことになったが、これはのちの警察制度への第一歩であった。
市域の村々は四丁野村組合、大門宿組合(長島村など)、粕壁宿組合(大泊・平方・船渡村など)にわかれていた。四丁野村組合は袋山・増林・神明下・小林・大林・川崎・向畑・上間久里などの村々が所属したが、親村の四丁野村ほか六ヵ村が小菅県に編入されてからは、袋山村が親村となり袋山村組合と称している。寄場大総代は四丁野村名主太郎兵衛、袋山村名主吉左衛門、増林村名主熊蔵らで、小惣代には神明下村名主七左衛門、向畑村名主運八、上間久里村名主次右衛門、増森村名主久平らが就任している。これら寄場組合は旧幕時代と同じように大宮県の治安単位であったから、いろいろな取締上の申合わせをしている。たとえば、大門宿組合が県官より注意されて、組合村々で申合わせた個条は、
(1)御高札は紙札ではなく、板でかけ替え、村びと達に尊敬させる。
(2)博奕・賭の諸勝負は禁止されており、子供にもさせてはいけない。
(3)出火は早速かけつけ防火すべきだが、不審火でなくともすべて届出る。
(4)強盗押し込みは合図しだい集まってさし押え、もし手あまりの場合、疵(きず)をつけてもよい。
(5)組合村々のうちに行倒れの死人が出た場合も届出る。
(6)金札は正金と同じように流通させ、もし違反するものは届出る。
(7)組合村々の費用はなるべく軽減させ、また、村内に農業を嫌うものがいれば意見する。
ことなどである(「組合宿村議定書」市史編さん室文書)。旧幕時代と同じような治安対策がとられていたのである。