この寄場組合のうち寄場という呼称は、浦和県になってから明治三年四月に廃止され、かわって組合村々の村役人が集まる御用会所が取り立てられることになった。これにともなってこの呼称は、たとえば袋山村組合御用会所とよばれるようになっている。会所は名称が改められたというだけでなく、組合内の村々の融和、勧農、生産、備荒貯蓄などを目的とした村役人たちの話し合い機関として成立したものである。同じ組合でも、旧幕時代の治安機能を中心とした寄場組合から、新しく組合内の村々の行政と審議機関の統一体としての性格をもたされることになった。
西洋の二院制度がそのままとり入れられたのであろうか、各御用会所には上議役と下議役がおかれている。旧来の寄場大惣代を上議役に、名主・組頭層より有能なものをえらんで下議役とし、組合内の諸事を審議した。つまり近代化が形式性において与えられているのであるが、実態は寄場制度のもとでの地方行政とかわらなかったものと思われる。この体制のもとでもっとも力点がおかれたのは、やはり治安と生産・勧農・救貧をくみ合わせた会所積立金の制度であった。四丁野村組合では治安維持のために自衛組織がきめられており、粕壁宿組合(大惣代は平方村名主六郎左衛門、大泊村名主彦四郎ら)では、平方村西光院に貧困者の救助所を設けて、上層農民による救助を行い、村役人が先頭にたって村びと達の怠惰を正そうとしていた。貯穀による貧民救済の制度もおし進められて、村高に応じた積銭額(高一〇〇石に一日一〇〇文宛)がきめられ、また積穀量(高一〇〇石に米麦一石五斗宛)もきめられている。増林村の積穀金は第4表のようになるが、これらは貧民救済のほか授産資金としても利用された。現実には貸付は低利の融資ではなかったから、村内上層の人びとの相互金融的な性格をもつこととなっている。治安維持、困窮者の救済、勧業は、新県では重要な課題であったわけである。
村高 | 1854石6斗9升6合 | ||||
内 | 田高 | 954石949 | 此米 | 14石3842 | |
畑高 | 854石747 | 此麦 | 13石4362 | ||
明治3年 | 救助日々積銭 | 15両1分3朱 | 銭202文 | ||
積穀米 | 14石3842 | 此金49両3分 | 銭154文 | ||
明治4年 | 積穀麦 | 13石4362 | |||
合計 | 65両3朱 | 銭356文 |
明治2年「諸御訴書記」榎本家文書