越ヶ谷は宿場町である。これまで長い歴史を経ていることは、すでに越谷市史第一巻で述べられているが、戊辰戦争はまた宿場町越ヶ谷の性格を、基本的に変化させる起点でもあった。宿場制度それ自体が否定されてゆくからである。まず、戊辰戦争時の交通事情についてみておこう。
この時期、官軍の輸送体制は進軍途中の近くの諸藩によって担当されたが、大部分は旧幕時代以来の宿駅制度が利用されている。慶応四年二月十九日には京都の軍防局より、諸道の先鋒総督の部隊に対し人馬徴発の様式が通達され、宿駅人馬を勝手に使用しないように、総督府の印章を持参するよう統一されている。無賃銭での継立の強要に対してつよく警告し、不法の行為、振舞いのないよう注意した。従来助郷を免除されていた村々にも拡大し、公用の人馬賃銭を四月一日より元賃銭の七・五倍に値上げし、基準の賃銭を人足一人、一里につき一五〇文、馬はその二倍と定めている。値上げされてもいずれも物価高騰の当時にあっては低賃銭であった。新政府はまず、旧幕時代以来の宿駅制度に依存し、軍事的利用のために改善にのり出したのである。
閏四月二十一日、太政官職制の改定によって会計官(のち民部省)のなかに駅逓司がおかれ、はじめて陸運行政の部局が生れている。しかし、この駅逓司によって進められた政策も、依然として旧来の宿駅制を存続し、部分的な改善を行なったのみである。五月には物価騰貴のうえ諸街道の往来がはげしくなり、宿場・助郷村とも次第に困窮し、たえきれず農民の離散する情況も生まれてきたので、宿場と助郷村を一体化し負担を平等にしようとした。また、人馬継立の権限を駅逓司に統一しようとしながら、あいかわらずの定賃銭の体系を維持し、時価より低賃のためすべて農村の負担に結果するような賦役的性格をもつ政策をつづけていたのである。このような情況は明治三年二月まで続く。この間の事情を、越ヶ谷宿の実態を通してみておこう。