官軍の通行

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まず、官軍通行の実態についてみれば第5表のようになる。官軍用の人馬継立が行われた期間のうち、判明する二年正月一日より廃止される二月九日までの数値を示したものである。この数には越ヶ谷宿に常備されている宿人馬は含まれていない。すべて周辺の加助郷・定助郷の村々より徴発された人馬である。多人数の通行のため、宿人馬では足りなかったのである。これらは越ヶ谷宿の問屋と定助郷村々の惣代である七左衛門村年寄喜右衛門、神明下村名主平右衛門、弥十郎村名主宏次郎、下間久里村名主久左衛門、登戸村年寄富右衛門、西新井村年寄益蔵らと、加助郷村々惣代の千疋村年寄新五郎らが立会って決定された人馬数であった。

第5表 越ヶ谷宿の官軍人馬継立量(明治2年1月)
月日 使用人馬 うち
夜詰人馬
西方村人馬 備考
正.1 700 400 300 25 14 問屋伝吉
2 600 400 200 21 14 問屋長兵衛
4 800 500 300 28 18 佐竹様,官軍御用方様越ヶ谷泊
5 600 300 200 22 11
6 600 300 200 22 14
7 400 200 200 14 7
8 400 200 200 14 7
9 600 400 300 21 14
10 500 18 7
11 600 400 200 21 14 郡山様,官軍御用方様越ヶ谷泊
12 600 300 300 21 11
13 400 200 200 14 7
14 400 200 200 14 7
15 400 200 200 14 7
16 400 200 200 14 7 問屋利兵衛
17 400 200 200 14 7
18 400 200 200 14 7
19 800 400 500 28 14 西園寺中納言,加州様ほか越ヶ谷泊
20 400 200 200 14 7
21 800 400 500 28 14 小倉様ほか降伏人越ヶ谷泊
22 600 400 300 21 11
23 800 600 400 28 14 小倉,松前様ほか降伏人越ヶ谷泊
24 400 200 200 14 7
25 400 200 200 14 7
26 400 200 200 14 7
27 400 200 200 14 7
28 400 200 200 14 7
29 400 200 200 14 7
30 400 200 200 14 7
400 200 200 14 7
2.2 400 200 200 14 7 問屋次右衛門
3 400 200 200 14 7
4 400 200 200 14 7
5 400 200 200 14 7
6 400 200 200 14 7
7 400 200 200 14 7
8 400 200 200 14 7
9 400 200 200 14 7 上杉様,官軍御用方様通行
合計 18,600 9,800 8,700 654 275

明治2年「御用留」西方秋山家文書

 この時期は戊辰戦争はすでに終りにちかく、箱舘の五稜廓戦争が残されるだけとなった時点である。それにもかかわらず、連日四〇〇人、二〇〇疋以上の人馬の徴用が行われていた。これが戊辰戦争のさなかで、関東地方より東北へかけて官軍の移動の激しかった元年四月以降の場合は、ちょっと想像することができない。史料が残っていないので知りえないのが残念である。

 元日より二月九日まで、一ヵ月余の徴発人馬の総数は一万八六〇〇人、馬八八〇〇疋余である。これらのうちには八七〇〇人余、一一〇〇疋余の夜間勤務の人馬が含まれている。西方村の場合、六五四人、二七五疋の人馬が徴用されたことになるが、この村の戸数は当時家持九〇戸と借地八〇戸ほどである。一七〇戸とすれば一戸当り四人と一疋半の負担となる。借地人へも助郷人馬が課されたか不明であるが、助郷は村高に課されるので高持の、しかも家持の農民だけに課されたとすれば、一戸当り七人と三疋弱の負担となる。人馬賃銭は会計官より三月一日に越ヶ谷宿役場で村々へ支払われているが、時価より低かったので村びとの負担は少なくはなかったはずである。このうえ、村々の支配役人や用水土木関係の役人の廻村にも人馬が供されていたのである。官軍荷物や降伏人の通行に、馬の口綱をとり運送を担当した越谷の人びとは、世の移りゆくさまをどのように感じたであろうか。