つぎに越ヶ谷宿の当時の様子についてみておこう。まず人馬賃銭についてみれば、この時も旧幕時代と同じように、公用旅行者は御朱印人馬として無賃人馬と幕府の公定した御定賃銭による場合があり、一般旅行者・荷物は相対賃銭によっていた。当時の御定賃銭の変化をみると第6表のようになる。正徳元年五月決定の賃銭を元賃銭と称し、これを基準に割増しされており、明治三年には実に一二倍にも達している。このような賃銭の上昇は、物価騰貴や人馬継立の負担増加による宿場の疲弊の結果としてみられたものであるが、それでもなお現実の物価上昇にはおいつけず過重な負担となるだけに、宿駅をめぐる助郷村との争いは絶え間がなかった。
正徳元年5月 元賃銭 |
文久3年 5割増 |
慶応2年 6倍半増 |
明治元年 7倍半増 |
明治2年 10倍増 |
明治3年 12倍増 |
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文 | ||||||
草加宿へ | ||||||
本馬 | 67 | 115 | 435 | 694 | ||
軽尻 | 44 | 73 | 456 | |||
人足 | 34 | 56 | 352 | |||
粕壁・岩槻へ | ||||||
本馬 | 106 | 172 | 1貫60文 | |||
尻軽 | 67 | 115 | 692 | |||
人足 | 50 | 83 | 520 |
「万覚帳」大沢荒井家文書
賃銭上昇分の配分についてみれば、第7表のようになる。慶応二年八月までの割増しされた賃銭の取分比である。文政年間にいったん一割五分増しとなっていたから、これに加え文久三年の五割増の合計六割五分増の賃銭についてであり、この年後の六倍半増の賃銭は含まれていない。表によれば、粕壁宿は文政より文久三年までの間に一度、三割増の賃銭が越ヶ谷・草加と異なって余分に認可されているので合計は九割五分の増銭である。これらの増銭分は、各宿場によって比率はちがうものの、人馬継立に使用された本人と宿場全体の助成金および助郷村々への助成金とに配分されている。越ヶ谷宿では助郷助成金はないが、宿場助成金が問屋場で「其時々遣払」されるとあるから、臨機応変に支出されており、助郷助成的な意味をもつ出金も少しはあったように思われる。もっとも、越ヶ谷宿の場合、草加と比較して出人馬すなわち継立人馬への還元が多かったことにみられるように、宿場疲弊とは宿場体制を支える常備人馬の困窮が主因をなしていたのである。いずれにしても、各宿場の事情によって配分の割合が異なっていたのである。越ヶ谷宿の場合、慶応三年正月にも同様なとりきめをしており、その後の賃銭上昇分も同様の配分がおこなわれたものと思われる。慶応三年三月当時、大沢町の場合、伝馬役屋敷は七四軒半であるので、助成金は一軒につき二分と六九四文となる。当時の越ヶ谷市(いち)の米価で換算すると米六升余りである。これで果して助成の意味があったのかどうかはたいへん疑わしい。人馬継立の賦役的性格から結果するところであった。
越ヶ谷宿 | 草加宿 | 粕壁宿 | |
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上昇率 | 6割5分 | 6割5分 | 9割5分 |
出人馬取分 | 4割 | 3割2分5厘 | 4割2分5厘 |
宿助成金 | 2割5分 | 2割 | 5割2分5厘 (うち20両) |
助郷助成金 | 1割2分5厘 |
「万覚帳」大沢荒井家文書
戊辰戦争もすぎて世上が平穏になると、参勤交代もなくなった宿場は、増額されたとはいえ低賃銭の御定賃銭による収入さえ保障されなくなってくる。いきおい農業村的な宿場町であった越ヶ谷宿は、農業を主とした他の商売に転換せざるをえなくなる。大沢町の旅籠屋達は、明治二年七月に、旧来の上中下三組による不統一の稼方を改正し、町内平等の稼とし、年間銭八五七貫文余の宿場積立金をする申合わせをしている(越谷市史(三)六七二頁)。食売旅籠屋一八軒で抱(かか)え女一〇〇人が一人一日銭一六文を積立てると年間六〇〇貫文となり、平旅籠屋三七軒は食売旅籠の三分の一余を積立てるというものである。宿場の繁栄をねがって積立てをはじめたのであろうが、明治五年十月には食売女解放令が出され、積立金の根拠も失われている。旅行者の減少は旅籠屋にかぎらず、商人にも農民にも影響を与え、周辺の村びと達はもっぱらあてにしていた旅籠屋の下肥えが利用できなくなって農作業にも支障をきたし、東京・横浜への出稼も多くなったと云われている。