駅法の改正

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越ヶ谷宿と助郷村との関係をみると、二年二月九日、駅逓司は西方・増林・瓦曾根・東方・長島など四六ヵ村に対し、官軍の継立のため命じていた越ヶ谷宿への「当分助郷」を免除している。三月には宿場、助郷村の組替えがふたたび命ぜられ、越ヶ谷宿付属の村々は現市域の村々を中心に七七ヵが指定されている。五月には越ヶ谷伝馬所(駅長利兵衛・喜兵衛)より、伝馬所入費および人馬買上げ賃を備えるため、村高一〇〇石につき金一両二分の積立てが通達されている。これは元年五月以来、旧来の宿場助成制度や地子免の制度を根幹とした、宿場の二五人二五疋という常設人馬の体制を変換し、宿場自体の疲弊を救うため、宿場と助郷村と一体化させ、負担を平等にするためにとられてきた方法である。しかし、資金はなかなか集まらなく、しばしば督促されている。そのため三年三月には再び宿場助成、地子免制を復活させている。

 とにかく、宿駅制度の根本的改革なくして有効な運輸体制は生まれるものではなかった。民部・大蔵両省は五月十二日、継立業務の民間への委託の方向を明らかにした。このことが噂として伝えられると、長い間、助郷の負担に苦しんできた村々は、五月晦日をもって助郷が廃止されるものと考えるようになった。小菅県草加駅出張所はこの噂を否定するため、特別の布達を出している。

 このようななかで資金難の越ヶ谷宿は、宿場体制の縮小を行なっている。これまで「駅郷一般月給金」(越谷市史(五)一九〇頁)、つまり宿場と助郷村の平等出金の積立分より給料が支払われていたのは、駅長の利兵衛、喜兵衛、年寄次右衛門、年寄代清太郎、駅方立会で触元佐の大野佐平次、帳付の豊治郎、五右衛門、馬差の馬之助、彦太郎、弥吉、宿割の忠右衛門、勘定掛の富右衛門、新兵衛ら一三人であった。このほか助郷村々の惣代、つまり駅方立会の袋山村吉左衛門、七左衛門村八郎左衛門、大間野村賢之輔、神明下村七左衛門、増林村幸助、千疋村新五左衛門、二郷半領中島村幸右衛門、鹿見塚村大助らは、駅方へ立会った場合においてのみ、月給六両の割合いで日給になおして支払うことが決められている。帳付の五兵衛、馬差の作次郎は越ヶ谷宿見張所へ勤務替えとなり、月給一〇両は宿場の重立った町人と高割で半分づつ出金されることになった。また、馬差の太郎右衛門、宿割の源蔵の二人は老齢のため休役となり、帳付安五郎、馬差藤太郎の二人は相対人馬世話金をもって月給にあて、勘定掛半治郎は旅籠屋休泊掛となり旅籠屋出金と改め、馬差喜三郎は捕亡方付属に転出した。交通量の減少と積金難が規模縮小をもたらしたのである。