宿駅制の廃止

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その後、越ヶ谷伝馬所は積金制でなんとか持続したが、この間、政府は宿駅制度の否定策を打出してくる。五月十二日の民部・大蔵両省の決定は、「宿駅人馬相対継立会社」(「駅逓明鑑」巻四、一一篇)をつくる方向であるとし、諸街道の各駅に公的な旧来の伝馬所とは別に、民間の貨客輸送にあたる私的な継立機関を設立しようとするものであった。

 翌四年五月より具体化され、「陸運会社規則」案が作成され、これにしたがって七月より各駅で会社設立が準備される。当時の規則によれば、(1)「身分ヲ論ゼズ」定式の賃銭で継立てること、(2)継立は先着順とし「高貴之御方様」でも特別扱いはしないこと、(3)諸荷物の目方は七貫目までを人足一人、四〇貫目までを馬一疋とし、増量の場合は増賃をとる。(4)早追(急行便)は定賃銭の七割五分、夜(夜行便)は一倍半増とすること、(5)会社人馬へは鑑札を与え不法行為のないよう注意することなどが決められている。武士階級の公用旅行を主とする宿駅制度にかわって、身分格式にかかわらない先着順の輸送となり、輸送手段に荷車もとり入れられ、新しい時代へ対応しているのである。会社の営業形態は、旧宿場役人を中心とする同業者の組織として、人力車、馬士稼などの往還稼、つまり道中営業者には鑑札を与え、会社の規則をまもらせて会社の統制のもとに誠実な往還稼を行わせたのである。

 五年一月には東海道各駅の伝馬所が廃止され、七月には全国諸道の伝馬所および助郷の廃止令が出されている。埼玉県でもこの七月に伝馬所廃止、以後の人馬輸送はすべて相対雇とし、積立金の村々への返金を命じている。越ヶ谷宿ではこの月、旧駅長の松本利兵衛によって陸運会社が創立されている。