戸籍区

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明治四年十一月、廃藩置県により中央集権国家が成立した。すなわち藩が廃止され府県制に統一されたわけである。このときの制度は、行政上の体制として、全国的に大小区が設定されたが、この大小区制は、明治十一年のいわゆる三新法の時期まで地方の支配機構として機能したのである。廃藩置県にともない、地方官、つまり各府県の府知事・県令は雄藩出身の新任官僚が就任したことから、管轄地内の事情を知るための諮問機関も設けられるようになっている。まず、大小区制の前提となった戸籍区についてみておこう。

 明治四年四月、政府は戸籍法を布告し、数ヵ村をまとめた戸籍事務をとりあつかう範囲に区の名称を用いるとともに、戸籍事務を担当するものとして戸長・副戸長をおいた。当時の村落行政は、旧来どおり名主・組頭・百姓代とよばれる村方三役で担当しており、その中より戸籍事務を独立させて戸長に担当させることになったため、村落の二重支配が行われることになった。この戸籍法は藩領でも実施され、忍(おし)藩では四年五月に区内に戸長をもうけ戸籍を担当させており、十月には区画の再改正を行い区数を減少させている。東方村、千疋村は忍県第二二区であった。

 浦和県では六月より準備をすすめ、七月に旧来の組合の呼称を廃止し、区と称すべきことを達している。八月には旧御用会所の所属村々を単位に区画編制が行われ、袋山村組合は第六区、粕壁宿組合は七区、久喜町組合は八区となっている。久喜組合の第八区は三七ヵ村が属し、それぞれ六~一〇ヵ村づつ組合わされて五小区が設けられ、小区毎に戸籍掛の戸長がおかれている。袋山組合は村数が少なかったためか、小区という呼称はみられない。戸長は増林村の榎本熊造、副戸長は袋山村細沼範十郎、上間久里村上原次郎右衛門らである。粕壁組合の戸長には大泊村の那倉彦四郎らがえらばれている。御用会所は以後、第何区会所と呼ばれるようになった。小菅県でも区制がひかれ、七左衛門村・越ヶ谷宿は第七区、西方村は第六区に属している。隣接の大川戸村は葛飾県第一二区であった。