区戸長制の実施

30~32 / 1164ページ

明治四年十一月、廃藩置県がおこなわれ、埼玉郡を中心に足立郡および葛飾郡の一部を包含した埼玉県が成立した。県庁は岩槻におかれ、県令には旧鹿児島藩出身の野村盛秀が、九州の日田県知事より転出して就任した。これを補佐したのは旧長州藩出身の参事白根多助(のち埼玉県令)である。県は旧高にして四八万石余、七万七四〇二戸の規模であった。これにともなって岩槻、忍、六浦などの諸藩が消滅し、浦和県、小菅県も廃止され、市域の村々はすべて埼玉県に所属することになった。

 五年三月、埼玉県は管内を二四区に画し、各区ごとに会所を設置し御用取扱所と称した。市域村々の所属した区と役人を表示すると第8表のようになる。戸数・区戸長名は明治九年一月当時のものである。この改正によって、旧来の浦和県何区、小菅県何区、岩槻藩何区という不統一は是正され、市域村々はすべて埼玉県下の区となったが、地域が広いため単一の区として統一されてはいない。越谷地域は越ヶ谷宿を中心とした第二区の二九ヵ村、他の村々は草加宿中心の第一区、松伏村中心の第四区、粕壁宿中心の第五区、岩槻町中心の第二〇区にわかれて所属された。この区制は、最初、区のなかが小区にわかれる大小区制的な動きがみられた。たとえば、第二区の場合、一小区は越ヶ谷、大沢、二小区は西方、七左衛門、大間野村など、三小区は袋山村周辺、四小区は増林村周辺村々などである。史料上には第二大区小一区越ヶ谷宿戸長大野佐平次などと出てくる。しかし、これも六年夏ごろまでで、この大小区制は制度化されることなく、十一年の三新法による地方体制の改正まで推移している。埼玉県は全国的にも珍しく大小区制を採用しなかった県となっている。

第8表 市域村々の所属区と区・戸長(明治9年1月当時)
村名 反別・戸数および区長等 戸長
第一区 伊原村・麦塚村 486町2反余
458戸
東方村・見田方村 東方 中村七郎右衛門
南百村・四条村 区長 諸木弥十郎 南百 中村貞蔵
別府村・千疋村
第二区 越ヶ谷宿・瓦曾根村 2525町5反歩
3258戸
越ヶ谷 大野佐平次
西方村・蒲生村 瓦曾根 秋山孫左衛門
登戸村・大間野村 西方 秋山弥之吉
七左衛門村・谷中村 登戸 関根八右衛門
四丁野村・越巻村 蒲生 清村重兵衛
神明下村・荻島村 七左 野口八郎左衛門
西新井村・後谷村 大塚源左衛門
長島村・大沢町 四丁野 会田太郎兵衛
大房村・大林村 谷中 関根三右衛門
大里村・袋山村 区長 高橋庄右衛門 荻島 大熊長左衛門
上間久里村・下間久里村 中村賢之輔 大沢 島根喜兵衛
弥十郎村・小林村 井出庸三 大林 瀬尾八郎右衛門
花田村・中島村 榎本熊 下間久里 平仙右衛門
増林村・増森村 学区取締 秋山吉重郎 袋山 中島幸右衛門
小林 江原盛蔵
花田 栗原勝右衛門
増森 中村久平
増林 関根平蔵
第四区 大吉村・向畑村 471町3反余
483戸
大吉 染谷七郎兵衛
川崎村・大杉村 川崎 長野半右衛門
大松村・船渡村 船渡 神田義太郎
平方村 平方 中村久兵衛
白鳥忠次郎
第五区 恩間村・大竹村 310町4反余
380戸
恩間 渡辺孝太郎
大道村・三野宮村 大道 栗原時三郎
恩間新田・大泊村
第二〇区 砂原村・小曾川村 262町2反余
238戸
砂原 坂巻宇之助
野島村

「正副戸長名簿」越谷市史(五)383ページ
第5区戸数は「武蔵国郡村誌」

 明治五年四月、旧来の村落行政の担当者であった庄屋、名主、年寄の呼称が廃止され、全国一様に戸長と呼ばれるようになった。つまり戸籍区として出発した区制は、以後、行政区画となり戸籍担当の戸長は行政全般を担当する戸長となって、戸籍に関する二重支配は消滅するのである。区には戸長が、各村には副戸長がおかれ、村内には五人組に伍長がおかれ、また五伍を一組として保長がおかれて副戸長の事務を助けている。七年二月には正副区長制が実施され、区には区長一人、副区長八人をおき戸籍、徴兵、学校、勧業、租税、水理、出版、取締の八課を担当させることにしたが、必ずしも一人一課とされなかったから、実際には第8表のように二区には三人の副区長しかおかれていない。各村には戸長(大村は二名)を、一保には副戸長をおくことにしたが、これらの役人はすべて官選であった。それゆえ官吏に準じて等級が定められている。たとえば、第二区長高橋庄右衛門は準一三等、副区長榎本熊は準一四等、学区取締秋山吉重郎は準一五等のようにである。こうして旧来の村落の自治的性格は、県行政の末端機関としての性格をもつものに変わってゆくのである。こうして県令―区長―戸長―保長―伍長という行政事務の遂行の体系が成立する。第二区々務所は越ヶ谷宿におかれ、九年八月に新築されている。