このように、当時の埼玉県には小区が成立せず、のち入間県より熊谷県を経て埼玉県に合併される西武蔵の大小区制のもとの村々とも異なって、大区制のみで終始した。大区制だけであるということは、他の地方のように大小区制によって旧幕時代の村が公的に否定され、画一的な行政体系に統一される場合と異なって、大区だけで各村または村民を把握することは、行政範囲が広いだけに困難となる。そのため、埼玉県では旧来の村が公的にも私的にも行政の単位として機能した。
第9表は第二区村々の村事務所、掲示場を示したものである。区内二八ヵ村に一八名の戸長が存在しており、必ずしも一村一戸長とはなっていないが、二ヵ村に一人強の戸長は任命されている。大小区制の村々の場合のように、三〇~四〇ヵ村前後の村々を大区として区長をおき、さらに五~六ヵ村を一小区として戸長をおくことからみれば、戸長は各村に密着していることがわかる。このことは村事務所の数によってもわかろう。一七ヵ所の村事務所は、戸長の在村とは限らないものの、ほぼ戸長数に見合っている。大林、大里、上・下間久里、袋山の五ヵ村連合の村事務所が袋山村戸長別宅におかれ、これに瀬尾、平、中島の三戸長が執務する体制をもっとも例外とし、旧幕時代の村々の自主性がのこる形で事務所がおかれているのである。とはいえ、江戸時代の旧村が、名主宅を役場とし、高札場によって触の趣旨を村民に徹底させた旧体制と異なり、このときの体制は、戸長の宅から離れた役場で事務を処理し、高札場にかわって掲示場が設けられるなど、新らしい体制に移行しつつあったのである。もっとも戸長役場としての事務所は、戸長宅あり、村民宅の借家あり、寺院ありで様々であったが、すでに増森村では学校敷地内に七坪の新築役場も完成していた。役場も旧幕時代の公私混同から公と私の分化が明らかとなってきたのである。
町村名 | 戸数 | 役場位置 | 掲示場位置 | 戸長 |
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越ヶ谷宿 | 589 | 宿中央・戸長宅 | 宿西方・陸羽道側 | 大野左平次 |
瓦曾根村 | 131 | 民家 | 秋山孫左衛門 | |
西方村 | 175 | 村西方・戸長宅 | 秋山弥之吉 | |
蒲生村 | 249 | 地蔵院 | 村の中央 | 関根八右衛門 |
登戸村 | 42 | 清村重兵衛 | ||
大間野村 | 66 | 村北方・光福寺 | 村の中央 | |
七左衛門村 | 127 | 村中央 | 村中央・戸長役場前 | 野口八郎左衛門 |
四丁野村 | 72 | 村北方・共有地 | 村の東北・元荒川堤 | 会田太郎兵衛 |
神明下村 | 62 | |||
谷中村 | 48 | 村中央 | 村中央・村道側 | 関根三右衛門 |
越巻村 | 41 | |||
荻島村 | 131 | 村中央・民家 | 大熊長左衛門 | |
西新井村 | 84 | 村東方・民家 | 村東南・村道側 | 大塚源左衛門 |
後谷村 | 36 | |||
長島村 | 17 | |||
大沢町 | 443 | 町中央・民家 | 町中央 | 島根喜兵衛 |
大房村 | 58 | 村中央 | ||
大林村 | 31 | 瀬尾八郎右衛門 | ||
大里村 | 46 | |||
上間久里村 | 52 | 平仙右衛門 | ||
下間久里村 | 53 | |||
袋山村 | 79 | 村中央・戸長別荘 | 中島幸右衛門 | |
弥十郎村 | 31 | 観照寺 | 戸長役場前 | |
小林村 | 111 | 村東方・戸長宅 | 江原盛蔵 | |
花田村 | 48 | 村西方・戸長宅 | 村東北・屋敷前 | 栗原勝右衛門 |
中島村 | 39 | |||
増森村 | 150 | 村中央・学校敷地内 | 村北方・屋敷通 | 中村久平 |
増林村 | 263 | 村中央・戸長宅 | 関根平蔵 |
「武蔵国郡村誌」「正副戸長名簿」越谷市史(五)383頁