区務所―村事務所の体制がととのえられ、区戸長制が確立すると、区内の諸事務を処理する村役人層の集会も必要となってくる。かつて浦和県では御用会所と称して、大小惣代の名主組頭層の審議機関が設けられていたが、埼玉県でも区戸長層の会合を認めている。のちの県会や町村会とは異なり、諮問機関であったが、やがて区戸長公選要求を通じて民会的性格を帯びてくることになる。このような区戸長会は全国的に各県で設けられている。
五年九月、埼玉県は公議採用を名として県庁内に協議会をもうけ、各区内の人民にかわって区戸長に県治の得失を協議させようとする布達を出している。区戸長による県会の開催である。政体や法律、宗教などについての審議は禁ぜられたが、治水、道路、救恤、警備、交通、病院、学校、勧業などが討議されるはずであった。区戸長のほか有志のものの出席を認めており、のちの県議会の前身としての性格もうかがわれるが、実際の出席者は官選の区戸長であったから、広く県民の意志を反映するような会合ではなかったのである。この協議会へは各区の区戸長は、その区内の決議をもって臨んだから、その母体は各区の区会(=区戸長会)にあったことになる。第二区は正式に議案が作成されて審議されるようなことはなかったが、明治六年二月ごろより、県からの諮問事項について相談会程度のものは開かれていたようである。勧学、育英資金積立方法、民費省略、窮民救助などについて答申している。県庁で開かれた協議会には、二区を代表して高橋庄右衛門、中村彦左衛門、中村賢之輔、細沼範十郎ら正副区長が出席している。