江戸時代の財政は支配者に応じて幕府財政、藩財政、旗本財政とわかれ、それぞれの支配する領内村々より納められる年貢によって賄われていた。明治政府になると幕藩体制が否定され、中央集権の統一国家となったから、前節でみたような地方行政の体系化に応じ、旧来のようなバラバラな年貢政策を、根本的に変える必要が生じていた。ここに国家財政の確立をはかるための基礎的な作業として、税制改革を目的とした地租改正が日程にのぼってくるのである。
当時は資本主義が発生していないため、営業税・所得税などの税体系が成立していなかったから、いまだ封建時代と同じように土地の貢租に依存せざるをえなかった。とはいえ、封建時代と同じような生産物による現物の貢租では、資本主義を育成する上で不適当である。少なくとも、資本に応じた課税の原則は導入されねばならなかったから、地租改正の事業は近代的な原則につらぬかれている。たとえば
(1)農民に土地の私的所有権を法的に認める。
(2)米納貢租を否定し、金納の地租とする。
(3)石高制を廃止し、石高課税の原則から地価による収益課税の方式とする。
(4)地価の一〇〇分の三を地租とし、地租の三分の一を村費とする。
などである。江戸時代のように武士が土地所有権をもって分地も制限し、また作付制限などをして年貢を取り立てたことからみれば、この改正事業は、農民に所有権を与え、田畑の耕作が自由になったことなどを意味し、金納によって換金時に利潤を農家にもたらす契機となったこととも関連して、近代的な改革という性格をもっている。だが、当時の明治政府は財政難であって、国家財政の多くを地租に依存したため、当然に重い地租となっている。幕末期の貢租量を減らさないように地租が決められたため、本質的には封建貢租とかわりない地租である、という評価が一般的である。
地租改正は明治六年七月、地租改正条例の公布をもって開始される。その後、明治十四年の地租改正事務局閉鎖まで八年間つづく。だが、実際には五年より行なわれた壬申地券の交付事業が続けられており、地租改正に本格的にとりくむのは、全国的にも七年以降である。この事業は村びとの生活に直接に影響をあたえるだけに、作業の過程でさまざまな問題がおこっている。茨城、和歌山、三重県などでは大規模な一揆となって爆発し、〝竹槍でチョイと突き出す二分五厘〟と、地租を当初の地価一〇〇分の三より二・五へ減額させる契機となったことはよく知られている。