改正の開始

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埼玉県の地租改正は、壬申地券交付事業が続いていたため、本格的に開始されるのは明治八年四月からである。全国的にもっとも遅い県の一つである。三月には「地租改正ニ付人民心得書」が布達されており、これが改正のより処となった。これには石盛、貢租を廃し、土地の年間収穫量より地価をきめ、土地所有者よりその「実価」を上申させて台帳をつくることとされている。地価の算出法は、旧来のその慣習に応じて、小作米を基準とする土地は小作米より、収穫米を基準とする土地はその全収穫米より、地租(地価一〇〇分の三)と村入用(地価一〇〇分一、つまり地租三分の一)を控除した地主所得から、仕来りの方法で地価を決定するものとされている。

 土地は十字縄をもって丈量し、江戸時代の帳薄(検地帳・名寄帳)によってではなく、実際の土地を調査し、一筆かぎりの地引絵図、村絵図をあらためて作成するよう指示している。これにともなって、各村では地租改正着手届が提出され、改正に着手している。西方村は四月二十日より着手する旨の届出を出したが、村民一四七名は次のような証書を作って公平を期していた(「地租改正関係書」西方秋山家文書)。

       頼証書

  一、今般地租改正ニ付、耕地実際取調之義、各方左ニ相頼候

  一、十字畝歩入并図面変制之事

  一、境界取乱候場所者、至当之処以、判然境界相立候事

  一、道路幅取極メ、今後通路差支無之様、御取計可被成候事

  右之通リ相頼候上者、後日、聊苦情云々申間敷候、且取調中相当日俸相渡可申候、為後証如件

                                     第弐区埼玉郡西方村

   明治八年                                    秋山弥之吉

                                            (以下略)

地引絵図

土地調査に際して生ずる境界、道路、図面編成についての依頼と俸給の請書である。第二区の地租改正の体制は、改正担当人の榎本熊(副区長)を最高責任者に、越ヶ谷宿の田中安右衛門および会田清太郎が地租改正調惣代人としてこれを補佐した。村々では正副戸長が中心となり、二、三人の「立会人」が選ばれて調査に参加している。立会人はのちに村内の地主層の公選による地主惣代人にかわっている。このようにして改正に着手されたが、実際はなかなか進捗しなかったようで、九年十月ごろまで、内務省の役人や県官がたびたび越谷地方の村々を巡回しては督促をくり返している。全県的にも同じような状況で、翌十一月にいたって丈量が終了しており、次の手順である地位等級調査に着手されている。