地租の決定

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右のような官定の収穫量は、明治十一年五月十三日、第二区村々に「毎村収量ノ惣額ヲ配賦」(「諸書文」千疋立沢家文書)されている。各村ともこれを公平な収穫量として了承したのである。十九日には区務所において「収穫毎地配付ノ議案」(同前)が審議され、土地一筆ごとに収量を配布することを決定した。この収量を基準として地価が算定されている。これに採用された米麦価は、埼玉郡の場合、米一石につき五円一二銭、麦一石につき一円五五銭であった(「管下令達」県立文書館文書)。これは明治三年より七年までの五ヵ年間の、この地方の平均米麦価、一石当り米五円五〇銭、麦一円八五銭を調整した価格である。

 越ヶ谷宿の場合の算出法をみれば、宿全体の収穫米は二三〇六石余、収穫麦は八八二石余である。これを指定の米麦価で換金化する。大蔵省より示された地価算定方式である検査例によって算出すれば、自作地の六分利で資本還元するので、水田の場合の地価は総額一〇万三六四円余、畑地の場合は地価総額一万一六二〇円余である。新しい地租は地価の一〇〇分の三と決められているので、地租はおのおの三〇一〇円九九銭、三四八円六二銭となる。明治十年減租令により、地租は地価の一〇〇分の二・五となるので、越ヶ谷はそれぞれ二五〇九円余、二九〇円余に減額となる。このような地価算定を村ごとに行い、決定された新地租を越ヶ谷組合二五ヵ村にかぎり、明治八年当時の貢租と比較したものが第12表である。明治八年は江戸時代の年貢として収められた最後の年である。九年、十年の租税は八年に準じて決められ、十一年の新地租の決定によって過不足が清算されることになっていた。

第12表 越ヶ谷組合村々の改正結果
A 旧貢租
(明治8)
明治11年新地租 差引
(A-C)
B 100分3 C 100分2.5
越ヶ谷 2,890 3,420 2,850 -40
瓦曾根 1,025 1,428 1,190 165
蒲生 3,723 4,006 3,338 -384
登戸 797 966 805 8
西方 3,633 3,691 3,076 -557
四丁野 1,149 1,342 1,152 3
神明下 1,626 1,843 1,535 -91
大間野 1,179 1,465 1,220 41
七左衛門 2,645 3,107 2,589 -55
越巻 833 981 818 -15
後谷 950 963 802 -147
荻島 2,461 2,962 2468 7
袋山 306 852 710 404
花田 157 475 396 239
大沢 1,402 2,253 1,877 475
大房 750 888 740 -11
弥十郎 692 772 644 -48
増林 3,014 4,418 3,682 668
増森 746 1,528 1,237 527
中島 155 351 292 138
小林 837 1,441 1,201 364
大里 774 687 573 -201
下間久里 1,125 1,230 1,025 -100
上間久里 1,044 929 774 -270
大林 397 489 407 10
合計 34,309 42,486 35,438 1,129

明治11年「改正収量記」井出家文書,「武蔵国郡村誌」
明治8年旧貢租は8年当時の年貢米を改正使用米価で換算したもの
銭単位は四捨五入している

 表によれば、二五ヵ村の合計旧貢租額は三万四三〇九円、新租額は地価一〇〇分の三の場合は四万二四八六円で、改正の結果は八〇〇〇円余の増租になっている。八年当時、東京日日新聞は改正について「田租ハ地価ノ百分ノ三ナレバ概略減ズルニ付キ、田ノミ耕ヤス葛飾ノ二合半、或ハ越ヶ谷領ノ如キハ、運輸モ東京ヘ近ク、人民ノ悦喜ハ言ハンカタナシ」(八年六月一六日付寄書)と報じたが、現実は右のごとき増租となったのである。ただし、埼玉県は改正が全国的に遅れて終了したため、新租が決定された十一年は、すでに二分五厘に減租となっていたから、この減租後の額と旧租を比較すれば、増租の額は一一二九円となる。増租は七分の一になるが、それにしても越谷地方は水田地帯でありながら総体として減租とならなかったことは留意されねばならない。

 ところが、このような越谷地方全体の傾向も、村ごとにみれば異なった結果となる。地域全体は増租地帯でありながら、たとえば西方村はもっとも多く減租となった村であり、蒲生・上間久里・後谷(うしろや)なども減額が大きい村々である。逆に増租となった村々は、増林・増森・大沢・袋山・小林などの新方領南部の諸村であり、村位等級との関連でいえば、土地生産力の高い村々と低い村々の両極端の村々に増租率の高いことを知ることができる。これらは、いずれも江戸時代においては軽租地であった畑地の多く存在する村である。地租改正はこれら畑方により多く増税することによって、江戸時代と同額ないしそれ以上の国税収入を維持しようとしたのであった。