国家財政の基礎的な作業が、地租改正事業として行われていたとき、地方財政もまた江戸時代的な財政のしくみが一新され、中央集権国家の成立にともなう地方行政に応じた地方財政の体系化がこころみられていた。府県制の成立と、そのもとでの大小区制および村落という地方行政に応じたおのおのの行政事務費用が整備されねばならなかったのである。
戊辰戦争後の地方財政は、廃藩置県まで江戸時代の財政のしくみがそのまま存続し、明治五年ごろより具体的な改正の動きがあらわれてくる。それはまず、国税に対する地方経費を「民費」とする表現が一般化することからはじまる。民費とは、府県の費用のうち管内の人民に課しこれを支弁するもの、すなわち区費および町村費を含んだところの府県管内費である。国庫より支給されるもの、および府県税収入をもって支弁されるもの以外の、地方団体の費用を総称したものであり、明治十一年地方税規則の制定によって法的に規制されるまで、官費に対する民費として使用された呼称である。その意味では、地方経費をもって民費とする考え方は古くから存在したのであるが、一般に使用され出すのが明治五年ごろからである。ここでは廃藩置県以前に使用された村入用または夫銭という語と区別して、五年ころから十一年にいたる右の意味での地方経費を民費とよぶことにする。