村入用の性格

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ところで村費を中心に、村入用・夫銭から民費への変化の具体的なありさまを七左衛門村と西方村を例として検討してみよう。

 戊辰戦争直後は幕末期と同じように、村役人の取り扱った事務はきわめて広範にわたり、それら諸事務の費用はすべて「村入用」として村民が負担した。つまり、村落の一ヵ年の入用と考えられ、「夫銭」とも称された。越谷地域の村々でも双方の名称が用いられている。この村入用は、越谷地方の村々が一人の領主によって支配されてはおらず、何人もの旗本によって分割して支配されている場合が多かったから、本来、生活共同体として統一されるべき町村の財政は、支配と関連したあり方をするため錯綜するものとなっている。たとえば、七左衛門村は村高一一〇二石余の村である。このうち、もっとも大きな六三四石余の土地は代官大竹左馬太郎の支配であり、したがって天領(幕府直領)である。このほか一〇七石余づつの土地は旗本の長山、平岡、曾我、菅谷氏の所領であり、残り五三石余は中条氏の所領であった。つまり、この村は幕府(代官)と五人の旗本との六給の村である。本来、おのおのの所領ごとに名主がおかれ、支配地内の民政を管理するはずであるが、現在のところ五区分された旗本領の支配の実際はあきらかではない。村落財政は領主財政と関連するので、必然的に七左衛門村の財政は、各所領ごとの村財政の重層としてなりたつのである。ここでは、七左衛門村のうち史料の残っている天領の村財政についてみておこう。

七左衛門村夫銭帳(明治2年)

 第13表は、六三四石余の天領分の夫銭高を示したものである。これによれば、支出のもっとも大きなものは越ヶ谷宿への伝馬入用である。すでにみたように、戊辰戦争期の交通の増大と、宿駅助成のための周辺諸村への積立金の指示が、村々の負担を一層重くしている実情を示しているのである。これについで名主・組頭・百姓代ら村役人と定使(役場の雇員)、堰番の給料が多い。このほか比率はさがるが、捕亡方付属(警官の前身)の給料および取締りのための村内四ヵ所の木戸建築費、越ヶ谷組合の牢屋修繕費などを含む治安維持費が八両余もあり、大きな支出となっている。村政諸費とは凶作による年貢減免のための検見歎願の諸入用や、末田堰枠修繕の歎願入用、年貢納入の諸費用などである。そのため村役人の県庁および草加出張所への出張や、近村、関係村々との話合いのための会合費を含めると、全体の六%の支出となる。本来、比率の大きな土木関係の費用は、この時期はなぜか少なく、八両余で約四%にしかあたらない。

第13表 七左衛門村の夫銭高(明治2年)(天領分)
比率
項目
捕亡方附属給 3両1朱 永 29文7分 4.0%
村方取締費 5両1分3朱 永 61文17分
村役人その他給料 81両1分1朱 永 49文5分 38.1%
布達飛脚賃 3分3朱 永 6文95分
筆墨紙代 1両2分3朱 永 29文57分
勧化合力 1分2朱 永 60文
村政諸費 8両 永 61文5分 6.0%
村役人出張費 4両2分2朱 永 46文15分
普請用水入用 8両1分1朱 永 57文29分 3.9%
伝馬入用 84両1分1朱 永 1文76分 39.6%
検見入用 3両2分 永 39文4分
合計 212両2分 永 5文5分 100%

明治2年「当巳高掛諸夫銭帳」井出家文書

 これら費目の性質は、土木費以外は、元来、村役人が領主に代って行なう事務の費用である。つまり、領主ないし政府より委任された委任事務費である。土木費以外にも、計上されてはいないが、勧業・救済・祭礼・雨乞など、村内住民にかわって村役人が行なう村の固有な事務費もある。七左衛門村の財政は、これら固有事務費がきわめてわずかしか計上されておらず、村財政は政府の委任事務費に圧迫されていたことが明らかとなる。

 このような、町村財政が支配の補完的役割のための費用として支出されているという特徴は、なにも七左衛門村のみに限らない。越谷地域の村々はもちろん、全国的なこの時期の町村財政の特質であった。このような、村入用の総額二一二両余は、すべて高割によって徴収されていた。したがって、天領分の高六三四石余で割ると、一石当り一分一朱余の負担となる。石高を一〇石程度もつ中規模の農家の場合、三両一分一朱余となるが、それを当時の米価で換算すると三斗五升余となる。この村の貢租は五公五民である。一〇石の農家は五石の年貢を支払わねばならないから、そのうえでの三斗五升余の村費は、馬鹿にならなかったのである。