民費の性格

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つぎに西方村の場合をみれば、第14表のようになる。明治五年はいまだ夫銭と称されているように、江戸時代の特質がそのまま持続されている。七左衛門村でみられた特徴がすべて西方村でもみられるが、異なる点は、葛西用水、松伏堰枠、悪水吐樋、新堀修繕などの諸入費が、全支出の五割以上を占め、出羽橋、村内の自普請の橋々に要した費用を含めると五五%余にもなることである。用水土木費の比重の重さとともに、みられるもう一つの特徴は国役金が含まれていることである。国役金とは、重要河川の修繕のために幕府が特別に課していたものである。この国役金と伝馬入用および高掛物とよばれる六尺給米、伝馬宿入用などは、本来「課役」なのである。村財政はこの課役によって圧迫されたうえに、さらに残りの村入用も、行政上の委任事務費がほとんどを占めたのである。

第14表 西方村の夫銭と民費
明治5年夫銭高 明治8年民費額
費目 額率 費目 額率
円 銭 円 銭
用水普請費 82.91 51.7 県庁営繕囚獄費 33.06 行政機関費
16.7%
伝馬入費 7.13 区務所費 162.95
捕亡附属入費 30.08 18.9 事務所費 128.17
御用状飛脚賃 1.78 7.2 正副戸長以下給料 92.10
筆墨紙代 5.23 廻状持人足賃 20.91
村役人出張費 4.59 貢納ニ属ス諸費 115.44 村政事務費
5.6%
橋梁普請費 5.95 3.7 戸籍調費 12.50
国役金 22.56 14.0 徴兵下調費 1.55
合計 160.25 100 物産調諸費 1.75
高割 山林調費 15.81
10石ニ付1円余 地租改正費 1,028.81 39.5%
道路堤防橋梁修繕費 192.60 土木費
7.6%
道路掃除費 5.70
用悪水道費 286.82 用水費
12.3%
暴溺水防費 23.12
井堰守給料 11.17
番人給料 27.  治安維持費
4.8%
警察諸費 99.91
村社営繕費 11.66 神社費
1.8%
祭典并巡拝式費 29.25
神宮給料 5.27
国役金 23.27
〓育金 10.25
合計 2,604.52 100%

明治5年「夫銭帳」明治8年「民費書上帳」秋山家文書
明治8年民費は8年7月より9年6月までの1カ年分である

 明治五年以降、中央集権国家の成立により、民費と称されるようになった村費は、費目も統一され、七左衛門村にみられるように同じ村内でも、支配所によって異なった村財政のあり方は否定され、全国的に画一化されることになる。従来の「両」単位から「円」単位にかわるのもこの頃である。埼玉県が従来の村入用の支出・徴収法を改善しだすのは七年からである。二月には前年から徴収していた馬車・人力車・兎税、芸妓税など府県限りにおいて徴収していた諸税を「賦金」と改称し、四月には従来の村役人給料に関し、地方ごとに異同があるのでこれを廃し、区戸長給料は人口割・反別割とし、人口一人につき一厘五毛、反別一反につき四厘六毛を賦課することとした。しかし、徴収の費用が一定せず、帳簿も統一されなかったため「人民ノ狐疑ヲ抱ク者」や、「衆疑庶惑ヲ計算上ニ容ル者」(「県治提要」埼玉県明治史料第一集)がうまれ、各村で代議人が選出されて、区戸長の民費計算に立会うこととなった。これが町村会のはじまりである。

 八年二月には、旧来、地方ごとに区々であった雑税が廃止され、九月には大蔵省が徴収し国費にあてた「国税」と、賦金と称して府県限りに収入してきた「府県税」(「府県制度資料」下巻)が、正式な名称として成立したが、これよりさき、七年五月、埼玉県では民費調査を命じ民費の費目も統一している。八年からは、この三条実美の名で公布されていた課出すべき民費の項目にしたがい、市域の村々でも村費が調査されている。表中の西方村の明治八年の民費目は、この時政府から示されたものである。

 これによれば、民費には県庁営繕囚獄費、国役金、区務所費など、のちに府県税、区費とに区分される費用も含まれており、名称は町村を賦課対象としたところから、民費とも村費とも混同して用いられたものと思われる。支出の実態をみれば、民費総額のうち地租改正費が全体の三九・四%を占め、ついで区務所・事務所費と人件費を含む行政機関費が多く、また用悪水道費・水防費などの用水費、道路橋梁などの土木費、貢納・戸籍・徴兵・山林調査などの村政事務費の順に多くなっている。地租改正は当時の大事業であった。八年より九年にかけては、改正のための土地丈量、地引絵図の作成、地引野帳の作成などの作業が進行しており、改正全期間のなかでもとくにこの時期に支出は集中するのである。地租改正費が民費中のもっとも多くの部分を占めるという西方村の、このような傾向は、単に西方村に限らず越谷地域全般や全国的にもあてはまることであった。この巨額な地租改正費は、おのおのの土地所有者が所有権を獲得するために、当然に負担すべきものとされたのであって、政府はほとんどがこのような町村費の支出によって、租税制度の中核を確立することができたのである。

 地租改正費のほかは行政機関費、用水費、土木費で三六・六%を占める。このほか他の地域では大きな割合を占めるものに教育費があった。西方村では〓育金が教育費の補充的性格をもつのみで、本来の教育費がどのように負担されたかは明らかではない。村政事務費はもちろん地租改正費、行政機関費は本来国家で支弁すべき費用、すなわち国政委任事務費である。用水費・土木費にしても町村内の固有な水路、村道の修繕費ならばいざしらず、その大部分は葛西用水・元荒川、陸羽街道や県道など国家ないし府県管理の河川、道路の修繕費であったから、これらも本来は、府県費ないしは国税で支弁すべき国政委任事務費であった。番人給や村社営繕費こそが村落固有の費用である。村入用と同じように、民費もまた圧倒的な国政委任事務費によって圧迫されていたのである。