わが国の教育制度の確立は、明治五年の「学制」の頒布を待たねばならないが、それまでの間、維新政府の示した近代教育への方向がしだいにつちかわれ、やがて来る「学制」期への準備期間として重要な役割を果した。
なかでも、郷学校の設立がなされたことは注目に価する。明治新政府は早くも二年五月には、新しい人材の育成をめざして郷学校の設立を布告した。これに対して、市域を含む小菅県では、県庁所在地小菅村に二年六月郷学校を設立し、市域の村々にも生徒募集が行われた。さらに、三年一月十七日には、これが仮学校となり開校されている(蒲生村、「明治三年御用留」)。また、浦和県でも、県庁所在地浦和宿に、四年三月浦和郷学校を設立し、市域の浦和県管下の村々に生徒募集の達しが触れられた。この浦和郷学校は、四年十二月には生徒二三六人となり、七人の教官が支那学、算術、手跡のほか洋学(英語)を加えた四教科を教えた。このように郷学校は、設立、生徒募集が村役人を通じて行われ、教科目にも洋学を加えるなど、近世の郷学校とは異質なものであり、近代学校制度により近いものであった。
浦和県では、四年九月、各区(旧組合)に一校の郷学を設立するよう達し、その費用として米一石五斗を下付するものとした。特に、そのなかで寺子屋の統合と教科内容の統一が指示されている点が注目される。また、埼玉県では五年四月、浦和郷学校が廃止されると、新たに画定された二四の行政区に一校の学校設立を文部省に申請し、「学制」頒布までの臨時の措置として許可された。
市域に残る史料が少なく、その間の状況を知ることが困難であるが、「学制」が頒布された五年八月、第二区戸長井出庸造、嶋根喜兵衛の連名で四丁野村迎摂院に設立すべき郷学校の設立見込書がある(「諸御訴書上」榎本家文書)。後に、この迎摂院に第二区の本校(中心校)である大沢学校が設立されていることを考えると、何らかの形で実を結んだものと思われる。
一方、この時期には、公的教育機関としての郷学校とは別に、市域にも多数の寺子屋・私塾が依然として存続していた。例えば、瓦曾根村の照蓮院をはじめ、西方村の農民斎藤徳行、蒲生村の医師中尾良智、東方村の名主中村培根などの寺子屋・家塾は、この時期の庶民の子弟教育に重要な役割を果し、やがて来る近代学校制度へ移行していくことになる。