学区と学区取締

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わが国における近代学校の基本制度となった「学制」は、明治五年八月三日頒布された。その時同時に布告された「学問に関する被仰出書」では、「学制」のめざすところは、「邑(むら)に不学の戸なく家に不学の人なからしめんことを期す」ものであり、その根本理念は、国民皆学主義に基づく、国策遂行のための有為な国民の育成にあった。

 「学制」では学校体系を大学・中学・小学の三段階とする学区制を採用した。市域を含む埼玉県は東京に本部をおく第一大学区に属し、県内を第一一番から第一三番中学区の三中学区に区分し、市域のほとんどを占める第二区(行政区)は第一二番中学区に属し、第二〇区(行政区)に属した一部の村は、第一三番中学区に属された。また、小学区は、人口六〇〇人を一応の目安として区割を行い、一中学区に二一〇小学区を画定した。「学制」では各大学区、中学区にそれぞれ大学、中学を一校ずつ設立するのを目途としたが、埼玉県の場合は中学校は一校も設立されなかった。また小学校は県下全体では実際には六三〇小学区の三九%にあたる二四六校が当初設立され、第一二番中学区では八四校にすぎなかった。市域についてみると、越ヶ谷宿のように人口の多い町は四小学区(一六一番~一六四番)に分割され、人口の少ない村は、大里(一部)、大林、大房のように三ヵ村で一小学区(一五番)を形成した。なお、実際の小学校設立については、後述の「学校の設立」を参照されたい。

 また、「学制」では、各中学区に一〇数名の学区取締を置き、一人の学区取締が二〇前後の小学区を分担し、担当地域の学務に関する一切を担任するものと規定している(本編第八章参照)。

 この学区取締には区内人民のうちから名望家を選び、地方官(県令)が任命し、文部省督学局に届け出るものとした。前述の小学区画定とともに各中学区に学区取締を置く計画を文部省に報告しており、第一二中学区では八名が置かれる計画であった。

 市域の実施状況をみると、六年六月五日、第二区(行政区)の戸長井出庸造は、管下村々に、大間野村副戸長中村賢之輔、西方村副戸長秋山吉重郎の両名が県令から学区取締に任命されたと廻文を発している(西方村「御用留」)。その後七年六月、県が文部省に行なった報告には、第二区(行政区)の学区取締として袋山村の細沼範十郎の名前が見える。秋山がその後再任されたことは第8表(三一頁)のとおりである。この学区取締は各行政区の本校で執務し、これを補佐する者として、学校毎に学校世話役(七年七月~十月)や学校主者(八年以降)が置かれて学校事務にたずさわった。